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連載第4回 『ケアの贈与論』

 現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

 第4回は、ジョルジュ・バタイユを取り上げた前回の続篇「あるヤングケアラーのその後」です。「オイディプス」「神殺し」「太陽」という主題が幼少期の記憶につながっていき、ジョルジュの家族の物語が紡ぎだす「贈与論」が浮かび上がってきます。

あるヤングケアラーのその後

岩野卓司

オイディプス

 ジョルジュが生まれたとき、父は梅毒が進みすでに視力を失っていた。やがて、その四肢も麻痺していった。肘掛椅子に座ったままの父を助け起こし便器に座らせて、ジョルジュは父の排便の手助けをしたのだ。幼少期の彼は、ヤングケアラーとしての日々を過ごしていた。

 第一次世界大戦が始まり、ドイツ軍が攻め寄せてくると、彼と母は介護を放棄して逃げ出し、置き去りにされた父は、二人が戻ってくる数日前に死んでいた。この遺棄は終生ジョルジュの心に重くのしかかり、彼は自分をオイディプスになぞらえることになる。古代ギリシアのオイディプスが、知らず知らずのうちに父ライオスを殺害し、母イオカステと結婚したように、彼は父を置き去りにして殺し、愛する母を独占したのである。

 その後のジョルジュは母への愛を隠さなかった。最初の小説『眼球譚』には、マルセルという清純な少女が登場し、発狂して精神病院に入ったあと首を吊って死ぬのだが、その死体の前で主人公はシモーヌという少女と性的に結ばれる。父の病気のせいで精神的に追い込まれて自殺未遂を繰りかえした母のイメージが、マルセルに投影されていることを、ジョルジュは認めている。また、母が死んだとき、通夜の晩、棺の前で素っ裸でマスターベーションをしたことを、彼は告白しているし、小説『青空』でもそのことが言及されている。晩年は『わが母』という小説の草稿を残しており、そこでは主人公と母との近親相姦の愛が描かれている。しかも、この愛は聖なるものとされている。

 ヤングケアラーのその後は、オイディプスを生きることにあったのである。

神殺し

 母への近親相姦の願望とともに、ジョルジュの心を捉えるもうひとつのオイディプス的な欲望は父殺しである。現実の父が死んだ後も、ジョルジュは父殺しを繰り返すことになる。

 それは、神殺しというかたちであらわれる。前回説明したが、『眼球譚』執筆のペンネーム、ロード・オーシュは「便所の神」という含意があ【1】。糞を垂れる父は、神に重ね合わされているのである。

 ジョルジュは、ニーチェの「神の死」の影響でキリスト教の信仰を失ったが、それは単に神を信じなくなったというだけではない。彼がこだわり続けるのは、神を殺すことなのである。

 1930年代後半にジョルジュは、アセファル共同体なるものを構想する。アセファルとはフランス語で「頭がない」という意味である。このコンセプトのもとで、彼は頭脳の支配からの身体の欲望の解放、王や独裁者のような「頭」による支配のない共同体、キリスト教の神のような「頭」のない宗教を提唱する。その際、彼のイメージにあるのは、単なる「頭」の不在ではなく、フランス革命のように王を処刑することや、ニーチェのように神を殺害することなのだ。政治や宗教の共同体構想でも、彼は父殺しを徹底するのである。

 1940年代になると、ジョルジュの関心は神秘的経験(エクスターズ)の探求や実践に移り、キリスト教神秘家やニーチェのテキストなどを研究し始める。その成果は、『内的経験』をはじめとする『無神学大全』三部作に結実する。この神秘的経験にも神のイメージがつきまとっているが、その神を殺して「未知なるもの」に至るのが、神秘的経験の本質だと彼は説く。そして、神を殺した瞬間、自分も脱我(エクスターズ)という小さな死を迎えるから、神を殺すとともに自分も殺される、そんな経験を繰り返すのだ。ここでも父殺しに彼はこだわるのである。

太陽

 父や神のイメージと関係が深いのは、太陽である。太陽は直視すると目を焼き尽くし、盲目にするからである。父殺しと近親相姦の罪に耐えられず、オイディプスは自分の目を潰したが、太陽との関係はそれと同じである。

 若い頃のジョルジュが好んだ太陽のイメージは、古代ギリシアのイーカロスの神話である。イーカロスは蜜蝋で固めた翼をまとって自由に天空を飛翔できるようになったが、太陽に近づきすぎて熱で蜜蝋が溶けてしまい、墜落して死んでしまった。

 ジョルジュにとって太陽は、一方で憧れの対象であり、人間の生を高揚させ、恵みを与えてくれる美しい存在である。しかし同時に、イーカロスのように近づきすぎたり、直視しようとすると、焼き尽くされたり、死が与えられるような恐ろしい存在でもある。だから、いくつもの神話のなかで、太陽は首を掻き切る男や首なし人間として描かれていたりす【2】。高揚感の極致は、失墜と去勢なのである。

 この二重な性格から、ジョルジュの頭のなかで太陽は肛門と結びつく。『太陽肛門』という詩的なイメージを炸裂させた奇書のなかで、彼は光り輝く美しい太陽と糞を垂れるだけの醜い肛門を重ね合わせたのだ。ヤングケアラーのジョルジュが排便の世話をした父の姿も、そこに重ね合わされるだろう。リスペクトされ愛される父と情けなく糞を垂れる父。ジョルジュにとって、太陽のもつ二面性は、父の二面性、太陽と肛門の一致にほかならない。

 そして、輝く太陽を糞でまみれた肛門で汚すことも、ひとつの父殺しなのである。

太陽の贈与

 1933年に発表された「消費の概念」という論文で、ジョルジュは贈与と肛門サディズムの関係に注目し【3】が、その後、贈与と消費についての経済学の考えをさらに進め、「太陽の贈与」の構想を抱くようになる。この構想は第二次大戦のさなかにすでに懐胎されていたのであるが、最終的には1949年の『呪われた部分I 蕩尽』で開陳される。時代はすでに東西冷戦に入っており、ひとつ間違えれば米ソによる第三次世界大戦となる危険も迫っていた。そういった危機を回避するために、ジョルジュはひとつの案をこの著作で提示したのだ。

 『呪われた部分』では、「太陽の贈与」について次のように記されている。

 太陽エネルギーは、生物が繁殖して成長することの根源にあたる。私たちの富の起源と本質は、エネルギーすなわち富を返礼なしに惜しみなく与える太陽の光のなかに示されている。太陽は、何も受け取ることなく、贈与しているのだ。天体物理学者は、太陽の絶えざる浪費を計測していたが、それ以前から人々は、太陽による返礼なき贈与を感じとっていた。人々は、太陽が農作物を実らせてくれるのを目の当たりにし、太陽に属する輝きを、お返しを受け取ることなくただ贈与する人の振る舞いと、結びつけたの【4】

 太陽は何も受け取らずにエネルギーを地球に与えている。太陽のおかげで生物は繁殖し、農作物も実るのだ。この贈与は、あらゆる生の維持発展を支える源泉なのである。古代人や先住民の人たちは、この太陽を崇めて、受け取らずに与えること、利益を求めずに消費することに価値をおいたのである。この太陽のイメージは、恵みを与えてくれる美しい太陽のそれと言えるだろう。

 それでは、ジョルジュがイーカロスの神話に感じた、焼き尽くすような危険な太陽、死を与える太陽は、『呪われた部分』では省かれてしまっているのであろうか。『太陽肛門』のような、太陽と肛門の一致という詩的幻想は、ここでは完全に忘れ去られてしまったのだろうか。

 決してそんなことはない。太陽は間断なくエネルギーを与え続けるので、地球上のエネルギーは過剰なのである。この過剰エネルギーを生物が成長に使っているあいだはいいのだが、成長が限界に達して余ってしまったらどうなるのだろうか。そうなると反転して、生物はこの過剰を浪費しはじめるのだ。これを蕩尽という。

 生命の運動は太陽に起源があり、この起源に即したかたちでエネルギーの燃焼はおこなわれているのだが、生命の圧力は、余剰エネルギーをこの燃焼へ差し向けている。この余剰エネルギーの強烈で贅沢な蕩尽に、人間こそがあらゆる生物のなかで最も適した存在なのであ【5】

 人間は生物のなかでいちばんエネルギーを使い成長進歩したが、その反面いちばんエネルギーを蕩尽している。この蕩尽の最たるものは、戦争である。戦争は莫大なエネルギーの消費なのだ。とりわけ、二つの世界大戦は、ジョルジュから見れば、過剰エネルギーの爆発にほかならない。太陽の贈与は、ただ生物の成長を可能にしてくれるだけではなく、生物をエネルギーの蕩尽や死の破壊に導くものでもあるのだ。

 だからジョルジュは、蓄積した余剰エネルギーが集中して爆発しないように、人間も無償の贈与をしたりして富を分散させなければならないと説き、第三次世界大戦の爆発を避けるために、マーシャル・プランのようなアメリカ合衆国によるヨーロッパへの無償援助はもちろんのこと、さらには途上国への無償援助が必要だと述べている。

 太陽はただ地球にエネルギーを贈与するだけなのだが、このエネルギーは一方で生物の繁殖と成長のために使われ、もう一方で蕩尽や破壊をもたらす。この贈与は、生の源泉であるとともに、死のそれでもある。ジョルジュは太陽の二面性を忘れてはいない。生の高揚を促す太陽は、その失墜をもたらす太陽でもある。だから、輝かしい太陽は、サディスティックな肛門でもあるのだ。たしかに、ジョルジュの構想した「太陽の贈与」からは、一見すると、肛門の贈与はまったく抜け落ちているように見える。しかし、そのエネルギーの性格を注意深く観察すれば、肛門の破壊性が暗黙の前提になっていることがわかる。

 このように「太陽の贈与」の理論にも、父の二重の影がつきまとっている。憧れる太陽と破壊的な太陽、誇るべき父と糞を垂れる父。ヤングケアラー時代の思い出に苦しみながら、太陽と肛門を同一視することで、ジョルジュは一種の父殺しをおこなっている。そして、それは「太陽の贈与」の発想にも受け継がれている、と言えるだろう。

 ジョルジュという名のヤングケアラーは、その後オイディプスとして生きざるをえなかった。彼は近親相姦の欲望を抱きつつ、王、神、太陽に至るまで父殺しを徹底していった。しかし、そうであるから、贈与を安易に利他に結びつけることなく、その危ない本質についての鋭い考察を、僕らに届けてくれたのである。

連載第5回は、7月26日(金)公開予定です。

【1】『ケアの贈与論』第3回「あるヤングケアラー」。
【2】いくつもの神話のなかで、太陽は単に死を与えるだけの存在ではなく、死を与えるとともに死を与えられる存在でもある。というのも、死を与えられる者は、死を与える者(太陽)に対して敵意だけではなく憧れがあるので、死を与える者(太陽)と自分を無意識のうちに同一化してしまい、死を与えられることが、自分で自分に死を与えることになってしまうからである。その結果、与える側と与えられる側が混同されたり、同じ者であったりするのだ。
【3】『ケアの贈与論』第3回「あるヤングケアラー」を参照のこと。
【4】G. Bataille, O.C., VII, Gallimard, 1976, p. 35.『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2017年、41–42頁。
【5】Ibid. p. 43. 同、56頁。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

↓ 第1~3回の記事はこちらから


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