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なめとこ山にて

 

 

 

【なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている】

 

そんな一節から始まる「なめとこ山の熊」。

宮沢賢治が猟師と熊のことを書いた童話だ。

美しくも切ないエピソードが散りばめられている名作で、

読む度に、胸が締め付けられる気持ちになる。

 

なめとこ山の熊を片っ端から獲ったという主人公の淵沢小十郎は

本当は百姓や木こりなどの仕事がしたかったものの

仕方なく猟師をやっている。

生活のために熊を獲ったとしても、

命を奪うことに喜びを見出しているわけではない。

だから、自分が撃った熊に

小十郎はこう語りかける。

 

【熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。(中略)てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ】

 

一方の熊たちも、

そんな小十郎の心持ちを分かってか、

自分たちの命を脅かされながらも

決して小十郎を嫌ってはいない。

 

【なめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ】

 

生涯を通じて多くの熊を獲り続けてきた小十郎だが、

最後には熊に殺されてしまう。

 

【小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。

「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」

 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。

「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない】

 

微笑むような小十郎の遺体を囲むように

たくさんの熊たちがひれ伏し、

物語は幕を下ろす。

 

 

 

命を奪うこともあれば、

奪われることもある、というフェアネス。

自分が殺される事態となっても、

殺す側の事情にも思いを馳せる優しさ。

最期の瞬間に

怒りや憎しみを燃やすのではなく、

この世に生を受けたものの宿命として

諦観をもって受け入れる覚悟の美しさ。

以前より僕は、この物語がたまらなく好きで

幾度も読み返しては感慨に耽っていた。

 

特筆すべきは、

自分で狩猟をしていたわけでもない宮沢賢治が

なぜここまで深く、

猟師と獲物の関係性を描くことができたのか、

という点だ。

宮沢賢治の想像力と洞察力、

そしてそれらを培った人間性には

感服するばかりである。

 

熊獲り名人の淵沢小十郎は、僕の憧れだ。

それは決して、

熊をたくさん獲る技術があったからではない。

もっと大切な、猟師としての心を持っていたからだ。

ハンターたる者、

獲物を最も尊敬し、愛する者でなくてはならないと

僕は常々言ってきたし、

自分がそうである多少の自負もある。

しかし小十郎は更なる高みにいる。

自分が獲物を愛するだけでなく、

獲物に尊敬され、愛されているのだ。

自分が殺してきた動物の魂と

きちんと対話してきた小十郎だからこそ、

自分が殺された時には、

逆に獲物たちに送ってもらうことができたのだろう。

これこそが猟師冥利に尽きる生き方。

ハンターが目指すべき究極の理想像が、ここにある。

 

 

 

さて、この物語の舞台である

「なめとこ」という山だが、

現代の地図には記載がない。

明治時代の岩手県の地誌に

その名前が見られると分かったのは1990年代で、

それまでは長らく、宮沢賢治が名付けた

架空の山だと考えられてきたそうだ。

 

前置きが長くなってしまった。

 

ということである日、

不意に僕のもとに

なめとこから便りが届いた時には、

随分と不思議な気持ちになったものだ。

 

 

 

愛媛県・松野町にある、滑床(なめとこ)渓谷。

足摺宇和海国立公園に指定され、

照葉樹が茂る豊かな自然林に

イノシシやシカにサルが暮らし、

四万十川の支流となる

透明度抜群の目黒川が流れている。

その目黒川を見下ろすように聳える

標高1226メートルの山、三本杭は、

別名「なめとこ山」と呼ばれるらしい。

 

流域に広がる目黒集落は、

人口270人で高齢化率は64%。

いわゆる限界集落である。

連絡をくれたのは

その集落に建つホテルの従業員である坪井映二郎さん、

通称“わっほー”だった。

僕の本を読んで感動したそうで、

ホテルの経営者やスタッフと意見交換をするために

是非滑床渓谷に来てほしいという。

 

「なめとこ山の熊」を愛読してきた僕が、

また別の、四国にあるなめとこ山に呼ばれる。

折しも、僕は四国の熊のことが

とても気になっていたところだった。

 

行間から湯気が立ち昇るような

熱意溢れる若者のメッセージの裏に、

彼自身の気持ち以上の

更なる不可思議なエネルギーの流れを

僕は感じていた。

 

 

 

四国全体に生息する熊(ツキノワグマ)の生息数は

極めて危機的な状況に晒されている。

最新の調査では、たったの16〜24頭で

2036年の絶滅確率は63%。

日本の哺乳類の中でも、

最も絶滅が心配される個体群のひとつだろう。

 

2023年、全国的にクマによる人身被害が増えたことから、

4月16日に日本のクマ類はヒグマもツキノワグマも全てが

駆除などで生息数を管理すべき「管理指定鳥獣」となったが、

四国のツキノワグマだけは

あまりに数が少ないため、対象から除外されている。

 

元々は、四国の全域に生息していたツキノワグマだが、

森林開発や林業の害獣として駆除され続けた結果、

高知と徳島の県境に跨る剣山系に

細々と暮らすだけになってしまった。

なので、滑床渓谷には現在

ツキノワグマは生息していない。

しかしかつては、愛媛のなめとこ山にも

熊が闊歩していたのではないだろうか。

 

熊は豊かな森の象徴だ。

熊が暮らしているということは、

巨体を維持するために

様々な食べものを必要とする大食漢を養える

豊かな資源があることを意味する。

そして熊は種子を散布するなどして

森を育てる存在でもある。

 

なめとこ山の熊が、

宮沢賢治の故郷である岩手だけでなく

愛媛にも存在するようになったら

どんなに素敵なことだろう。

 

色々な想いを胸に、

2024年4月17日、

僕はなめとこ山に向かった。

 

 

 

僕を招待してくださった団体は、

「森の国 Valley」。

町営だったリゾートホテルを引き継ぐと共に、

自然度の高いユニークなキャンプ企画や

飲食店の経営などを行っている。

 

代表を務める細羽雅之さんは

経済的利益を追求するばかりの現代社会に

一石を投じようとしている経営者だった。

 

到着して真っ先に、

細羽さんご自身の田んぼや畑を案内して下さったが、

そこでは様々な農業実験が行われていた。

アイガモ農法、菌ちゃん農法、協生農法。

世の中には色々な農法がある。

興味があるものは、とりあえず何でも試してみる。

うまくいくこともあれば、いかないこともあるのは当然だ。

トライアンドエラーの結果、

その農法が、土地の特性や

自分たちのライフスタイルと合わないと感じると

あっさりと手放してしまう。

各種の農法についてだけでなく、

肩肘張らず、気負うことのない行動力の大切さを学んだ。

 

 

 

細羽さんの元には、個性的な人材が集まってくる。

東京から視察に訪れる人も後を絶たず、

次世代を担う若者たちも

続々と集落に移住してきている。

 

僕にアプローチしてくれた

わっほーもそのひとりだ。

彼らの間では日々、活発な議論が交わされている。

 

水量豊富な急流を生かした

小規模水力発電を活用してエネルギーを自給しつつ、

集落内の車を全て電気自動車に変えたらどうか。

 

優秀な医師に移住してもらい、

子供からお年寄りまでが安心して暮らせる基盤を作りたい。

 

理想を夢見て語る彼らの姿は、

どこまでも清々しい。

 

独自の地域通貨についても構想が進んでいる。

それもただの地域通貨ではない。

お金に賞味期限を持たせようというのだ。

期限内に使わないと、ただの紙切れとなる貨幣。

強欲に任せ、大量に溜め込んでも意味はない。

そうした取り組みは過去に海外で行われたことがあり、

かなりの成功を収めたという事例については

僕自身も本で読んだことがあった。

元々とても興味のある領域であり、

まさか、なめとこ山で

そんな話を聞くことになるとは思ってもみなかった。

あらゆるものが老化し、死に、腐って分解されるのが

この世の常であるにもかかわらず、

お金だけはその原理原則から外れている。

お金の本質は

物理的な硬貨や紙幣ではなく

単なる概念に過ぎないのだから、

劣化はしなくて当たり前だ。

そうした不自然なシステムを構築してしまった結果

様々な膿が溜まり、社会全体が行き詰まっている。

革新的な取り組みを通じて

この状況を打破できるのは

最早国家では不可能で、

単一の集落のような自由度の高い小規模集団だけだ。

 

細羽さんは冗談のように

「限界突破集落」という言葉を口にされていたが、

地方空港から2時間もかかる閑散とした山村が、

持続可能な未来への鍵を握る

最先端のラボであることは明白だった。

 

木漏れ日揺らぐ新緑の間に、

肥沃な大地の奥深くに、

人々の目の輝きの中に、

革命前夜の静かな鼓動が響いていた。

 

 

 

夕刻前に辿り着いたホテルは人里を離れ、

遠く山奥に入った奥座敷に鎮座していた。

上高地の帝国ホテルを模して作られたという建物は威容を誇り、

当時の贅を尽くした

細部まで作り込まれた意匠と

最新のリノベーションが心地良くマッチしている。

1階には軽く10人以上で火を囲むことができる

円形のオープンファイアースペースが設置され、

頭上の吹き抜けには見上げるばかりの

鉄製の集煙用フードが吊り下げられていた。

 

夕食はスタッフ全員で協力して作る。

私も参加し、

地元で獲れた鹿肉を調理させていただいた。

 

和気藹々とした食事を終え、

火を囲んで団欒していた深夜に、異変は起きた。

 

ズズン、という激しい縦揺れ。

巨大な鉄のフードが震え

天井から落ちてくるのではないかと怯えた。

震源地はすぐ近くの豊後水道で、

マグニチュードは6.6、震度は6弱だった。

 

実は、地震が起きたまさにその瞬間、僕は

「自然界では人知の及ばない、

時に理不尽で残酷なことも起きる」

という話をしているところだった。

これも何かの因果なのだろうか。

 

全員が一旦屋外に避難する。

余震は続き、不気味な地鳴りも聞こえる。

しかししばらくすると、

カジカガエルが美しい声で鳴き出した。

それを機に僕は自室に戻り、眠りについた。

 

 

 

翌日。

集落とホテルを繋ぐ一本道が落石で塞がれ、

自分たちが孤立化していることを知った。

しかし復旧にはさほど時間はかからず、

すぐに事無きを得た。

 

午前中、僕らは滑床渓谷を散策した。

スギやカシなどの木々が生い茂り、

北海道とは全く異なる様相を呈している。

沢筋にはどこからやってきたのか

想像もつかないような巨石が並ぶ。

聞けば、それらは全て

増水時に水の力で運ばれてきたのだという。

前夜の地震のこともあり、

大自然の破壊的なパワーに畏怖の念を抱く。

 

深い滝壺に飛び込んで泳いだり、

体が冷え切ったタイミングを見計らって

集落でコーヒーショップの開店予定の若者が

美味しいコーヒーを淹れてくれたり、

楽しい時間を満喫したが、

一番心が震えたのは、

登山道の古びた案内板を見た時だった。

 

なめとこ山を南に降るルートの一部に

なんと「熊ノコル」という名前を発見したのだ。

コルというのは

峰と峰の間の凹んだ鞍部を指す登山用語らしいが、

僕には、そこに熊が残っていることを

暗示する言葉にしか見えず、

四国のツキノワグマを絶滅から救うために

最後に残された一縷の望み、

復活の呪文のように思えてならなかった。

熊ノコルのすぐそばには、ブナ林という表記もある。

ブナの実といえば、熊の大好物ではないか。

滑床渓谷で最後に見られたツキノワグマは、

さっき僕らが飛び込んだ滝壺で見られたらしく、

今でも、熊らしきものを見た、という噂が

流れることもあるという。

今は幻の、なめとこ山の熊を

いつかこの目で見てみたいものだと

想像を逞しくした。

 

 

 

午後は、森の国Valleyの皆さんに

講演をさせていただいた。

このために呼ばれている僕にとっては、

午後4時から6時までの2時間ほどが

今回の滞在の正念場だ。

たまさかに知ることとなった

「熊ノコル」のエピソードを入れ込もうと

直前までプレゼン資料の修正を続けた。

 

有り難いことに、

僕の話を、皆さん身を乗り出すように聞いてくれ、

中には目に涙を浮かべている人さえいた。

 

 

 

滞在が終わり、帰路に着く。

地域や職種は違えど、

志を同じくする友を得た充足感は大きく、

初めて訪れたにもかかわらず

滑床渓谷は既に自分の第二の故郷であるかのような

感覚を持つに至っていた。

 

そうした気持ちが深まったのには、

地域の振興と自然保護に尽力した

昔の町長が遺した言葉との出会ったことも大きい。

 

【この森にあそび

 この森に学びて

 あめつちの心に近づかむ】

 

この謙虚さと、

大いなるものを尊ぶ心さえ忘れなければ、

日本の未来は明るい。

そして古来、日本人はそうした精神性を

世代を超えて培ってきたはずなのだ。

 

 

 

北海道に戻って1週間ほどが経っても、

まだあの旅のことを考えている。

改めて思うのは、

「想像力」は「創造力」ということだ。

 

自由な発想で理想の将来像を思い描くことは

我々人間の特性だろう。

その為にテクノロジーを駆使したり、

言語というツールで

思想や情熱を共有したりできるのもまた、

人間の特権だ。

 

卓越した想像力を、

過剰な欲を満たすことや戦争のために使うのでなく、

愛と平和に溢れた未来を創造するために発揮する。

現時点では

母なる星に被害ばかりをもたらしている人間だが、

本来はそうした役目を担って

地球に送り出されたのではないだろうか。

 

狩猟の現場を知らなかった宮沢賢治が、

本来は反目し合うべき

殺すものと殺されるものが共感し合い

響き合うという

心震える物語を書き上げられたのも

想像力の賜物だ。

 

【だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲りあったりしていることはたしかだ。】

 

なんと美しく、慈愛に満ちた描写だろう。

これこそが、幾多の動物たちを絶滅に追いやってきた僕ら人間が

総力を上げて蘇らせるべき情景だ。

 

人間と熊が、

ひいては生きとし生けるもの全てが、

調和の中に正しく命を全うする世界。

そんな理想郷が、

四国に、日本に、全地球上に広がってゆくことを

僕は願って止まない。

 

そして同じ夢を分かち合う者たちが

手に手を取り合って進めば、

この世に不可能はないと堅く信じている。

 

僕らの想像力は、

そのためにこそあるのだと

「なめとこ山の熊」は

時代を超えて語り続ける。

 

 


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