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変容する山



「あなたが知っている山を教えてください」
 
と聞かれたら、どう答えるだろう。
富士山、高尾山、比叡山、阿蘇山。
山の名前を答えるのではないだろうか。
大いなる大地の隆起である山。
その属性の第一番目は、なんと言っても名前だと思われる。
個々によって思い浮かべる山容や情景は違えども、
人はまず、名前によって山を個体識別する。
 
では二番目に重要な情報は何かというと、
やはり標高ではないだろうか。
富士山といえば日本最高峰。
標高が3,776メートルであることを誦じている人も多い。
 
標高は、登山者にとっては重要な意味を持つ。
高くなればなる程、体力や技術が必要となり装備も増え、
難易度を測る上での目安となる。
 
山において、頂上ほど分かりやすい目標は存在しない。
登山とは、その名の通り山を登ることであり、
つまりは頂上を目指すこと。
登山には、当然下山する行為が付随するが、
それは登ったからには降りなくては家に戻れないから、
いわば、仕方がないからだ。
山を登ることに情熱を燃やす人は多いが、
下ることにロマンを感じる人はあまりいないだろう。
山を登って降りることが
常にワンセットとなっている行為であるにも拘らず、
それは登下山とは呼ばれず、
登山という単語しか存在しないことからも
窺い知ることができる。
 
本格的な登山はしたことがない僕も
若かりし頃には幾つかの山を登ったことがある。
富士山、日光の男体山、屋久島の宮之浦岳。
僕にとっても標高はとても重要なファクターだった。
頂点ばかりが気になり、
そこにどのように、またどれだけ早く到達するか
ばかりを考えていた。
 
しかし僕の中で徐々に、
山頂という目標物は明快だった意味合いを失ってゆき、
ピークに立ちたいという熱意は薄れていった。
 
確かに山頂からの景観は、荘厳かつ爽快だ。
遠くの峰々、森林、海、集落や場合によっては都市など、
自分の暮らす大地がどういった要素で出来上がっているか、
大局を掴む。
冊子やパソコンの画面を通じてではなく、
自分の目で直接見ることができる中で
最も地図に近い景色と言えよう。
高度が増すとともに、見える範囲は広がる。
地図で言えば
25,000分の1、50,000分の1と縮尺が変化してゆく。
 
頂点から下界を見下ろし、
そこで連綿と続けられている営みを俯瞰する。
自分はなんとちっぽけなことに心を捉えられていたのか、と気付く。
それは都会では味わうことのできない非日常体験であり
快感でもある。
 
ところが、決定的に物足りない要素がある。
それが命の表情の豊かさだ。
僕が自然の中に入る最大の理由は、
端的に言えば生きものが見たいからだ。
しかし高い山であれば、標高が上がると同時に森は無くなり、
荒涼とした岩場が広がるばかり。
山は生命への寛容性を失ってゆく。
 
森、海、都市、それらは頂点から俯瞰すれば
緑の、青の、灰色の大きな面だが、
本当は、倍率を上げてゆくと共に様々な点、
つまりは生命体が蠢いているのが見えてくる筈だ。
山の頂きからでは、
それら、個々の命との繋がりが感じられない。
まるで空気中の酸素濃度と比例するように、
関係性がどんどん希薄になっていってしまう。
あらゆる命を寄せ付けない
自然でありながらの無機質な厳格さは、
人によっては大きな魅力なのだろう。
もしかすると、エベレストなどを登る人たちは
他者の命の気配が消えれば消えるほど、
己の命が儚いながらも確実に燃えている実感を
しっかりと抱きしめているのかも知れない。
 
でも僕が求めているものは
命の複合的なモザイク模様だ。
それは、色彩豊かな山の懐にこそ存在する。
頂上ばかりを見ていた僕の目線は徐々に下がり、
硬質で鋭角な一点から解放され
緑のたおやかな広がりを愛でるようになっていった。
 
 
 
そんな僕は今、ある山の麓に暮らしている。
集落の際に建つ我が家の敷地は、そのまま自然林に繋がっている。
猟師の住む家であるにも拘らず、
客は人間より圧倒的にエゾシカの方が多い。
 
庭には、昔住んでいた方が掘った井戸がある。
地元の方は、そこに湛えられた水は
山からの押し水だ、と言う。
押し水、という言葉は聞いたことがなかったが、
標高の高い場所に降った雨や雪が
重力によりじわじわと送られてきた水を意味するようだ。
 
僕はその水を飲むことで生きている。
山が一旦その身に宿した水を、我が身に取り入れる。
同じ水を飲んでいる鹿を捕え、その肉を食し、
命を永らえる。
 
山は頂点を目指す挑戦の象徴から、
生命を維持するための拠り所へと意味合いを変えた。
標高によって山の様相が、
また見える景色が、変化するように、
人生のステージに於いても
山の持つ意味合いは異なる。
岩肌に湿った風が当たって雨を降らせ、
何十年という時間をかけて水を濾過して届けてくれる
巨大な水システム。
それが連鎖して木々を育み、僕を含む様々な動物を育む
巨大な生命体システム。
今、見上げる山は、
自分の命を寄り掛からせる背もたれのようなものだ。
僕を後ろから優しく支え
抱きしめてくれているように感じている。
 
 
 
この地に移住して4ヶ月。
毎日のように見上げてきた山に、
先日ようやく登ってみた。
 
山頂から見る広大な景色。
そこにはその山を征服した喜びではなく、
見えはしないが確実に存在する
小さな命たちへのたまらない愛おしさがあった。
そして、山頂部に聳える溶岩ドームは
まさに御神体そのもの。
僕が以前から存在を感じていた山神を
確固たる実在として目視した思いだった。
 
斯くして山を登ることは、
僕にとってお礼参りであり
巡礼や祈りと同義の行為となった。
 
変容したのは山そのものではなく、
僕の心の中にあった、内なる山。
つまりは僕自身だったのだ。
 

 
 
 

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