「日本人離れした〜」は褒め言葉なんかじゃない。
私は、目がぱっちり大きい。
くっきり二重で、体型もBMI適正範囲内だ。
毛の濃さや、足の短さ、色々とコンプレックスはあるものの、毛は脱毛でどうにかし、足の短かさは服の着こなしでバレないようカバーして。
「目ぱっちりだね」
「日本人離れした顔立ちだね」
とよく言われる。
この言葉たちを、自分の容姿に対する自信に、心の支えにしてきた。
でも、容姿を褒められるたびに、心のどこか奥深ーいところでわずかに、「ん?」とさざなみが起きるのだ。
気づかないふりをしていたけど。
だって、褒められて、そのまま素直に受け取っておけば、ハッピーじゃん。
だけども、わずかばかりの、不安がよぎる。
『もしわたしが、事故かなにかの拍子に二重じゃなくなったら?』
『目が小さくなったら?』
『病気で体重が激増して、一生その体型のままだったら?』
『自分がもしこの容姿じゃなかったら、インスタに堂々とセルフィーを載せられただろうか?』
この容姿を失ったら、私は誰からも褒められなくなり、幸せじゃなくなるのだろうか?
そもそも、私は生粋の『日本人』なのに、なぜ「日本人離れした顔」が、褒め言葉なんだろう?
だれも、はっきりと、
「西洋人のほうが、アジア人より優れてる」
なんて言わないけれど、たしかに、私の脳には、無意識下にそう刻み込まれている。
・英語が話せたらカッコいい。
・足が長いほどカッコいい。
・鼻が高く、ホリが深いほうが美しい。
こういったことは、どこにも根拠なんてないのに、もはや、洗脳レベルで私たちの常識として浸透している。
そして、私たちはそういった容姿や特徴を持ち合わせた人たちに対し、当たり前のように
「目が大きくていいいなあ」
「二重でいいなあ」
「私もそんなハーフ顔になりたい」
と、口にする。
だが、私は最近、気づかされたのだ。
これらの言葉は、一部の人たちにとっては、決して褒め言葉なんかじゃなく、差別的な言葉でもあるということを。
知人に何人か、日本生まれ日本育ちだけど、海外にルーツがあるひとがいる。
彼らの多くが、
日本人の心を持ちながらも、日本人離れした顔立ちや髪質、肌の色の違いから、クラスメイトに仲間はずれにされたりと、外見のことで幼少期から屈辱的な思いをしてきていた。
数えきれないほどの差別的な言葉を浴びせられてきたという。
だけど、大人になるにつれ、裏を返したように、今度はまわりから容姿を羨ましがられる。
『目が大きくていいいなあ』
『二重でいいなあ』
『私もそんなハーフ顔になりたい』
仲間はずれにされないように、彼らは自分たちのルーツ、外国的な部分を隠そうと努力していたのに、ある時期から、途端にその特徴を褒められるようになる。
褒められても、それは彼らにとって「あなたは、私たち日本人とは違う」と言われているようなものだ。
差別、そのもの。
混乱し、自分が何者なのか、今でも分からずに、その痛みをを背負って生きているということ。
私たちは、そろそろ目を覚まさなければいけない。
『外国人』に対する憧れも、
『日本人であること』に対する劣等感も、
すべて幻だと。
私たちの無意識下に深く刻み込まれた洗脳を解くのは、容易ではない。
だけど、時代は変わり始めている。
あなたが口にする『褒め言葉』が、誰かを傷つけているかもしれない。
それに気づくことから、世界はもっと、優しくなれる。
あとがき
この記事を書こうと私を湧き立たせてくれたのは、私のジムインストラクター時代の大先輩。
ローラさんの勇気ある、赤裸々な発信が、たくさんの勇気をくれました。
そして、自分が知らず知らずのうちに多くのひとを傷つけていたことに気づかせてくれました。
本当にありがとうございます。
ローラさんのインスタグラムはこちら
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