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活字が好きなもので。

和牛のエッセイを買った話は以前したと思いますが、ダ・ヴィンチの連載を知らなかったわたしは今まさに二人の書く文章にすっかり魅了されています。

わたしは活字が好きで子供の頃からわりとよく本を読んでいたし、新聞も毎日いくつか記事を選んで読んでた。
ネット上に文を書いてるくせにこんなこと言うのも変だけど、[紙に書いてある活字]がとても好き。
だから昔から雑誌の連載やエッセイ本を書いている人を憧れの眼差しで見ていたし、今も好きな人の本や記事は存在する限り紙ベースで手に入れて読むようにしている(和牛の本も初版売り切れで増版待ってたんだ!)。


自分の中身を字で表現できるなんて、そしてそれが面白いなんてどうしてできるんだろう。

小学生の頃から絵を描くよりは文を書く方が得意だったから、夏休みの宿題の読書感想文は好きだった(読書感想画はお母さんが描いてた)けど、なんでもない日常とか、頭の中に描いた物語なんかを字だけで表現して人に読んでもらってしかも楽しんでもらうって、、、尊敬。

もちろん小説やエッセイだけじゃない。記事を書く人なんかも、わかりやすい描写や説明をして、かつ読み手の想像力の邪魔にならないように…天才かよ。

話を聴くよりも文章を読む方が脳にダイレクトに伝わってくる気がする。「読む」という行為に集中するからかもしれない。集中し始めると周りの音とかはあまり気にならないタイプだけど、より集中したいから読書中はイヤホンをしていることが多い(イヤホンから音は出していない)。

読んでいると、その文を書いた人から直接話を聴いているような感覚になってくる。喫茶店やファミレスで読書をしている時はその人とお茶しているような。家で読書している時はその人を家に招いているような。

こんな調子で読書は今ここにいない人の、もっと言えばもうこの世界のどこにもいない人たちの話も聴くことが出来るし、誰かが何年もかけて調べ上げたことなんかをたった数日で知ることだって出来る。浪漫の塊だ。

だから『書物』には敬意を払わなくちゃいけない。少なくとも文章にするだけの時間と労力がかかっているのだから当然だ。

ただ、文を「読む」というのも時間と労力を使うわけだから、書き手だって読んでくれる人を想像して丁寧に書く必要がある。

ひとつの文章が生まれて誰かひとりでも読んだ時点で、書き手と読み手の敬意の交換が行われるのだ。本人同士は気付かないけれど。なんて浪漫なんだ。

わたしは紙媒体が好きだけど、やっぱりこうして誰でも気軽に書けて読めるという文明の発展に感謝している。でももし明日突然「noteのサービスを終了します」なんてことになったら、この文章は消えて無くなってしまうのだろうか。

そうなってくるとやっぱり紙が強いよな。このnoteがサービス終了することなく続いて、わたしの文章もたくさん溜まっていって、何かの間違いでたくさんの人の目に止まることになって、いつか書籍出版なんてことになったらいいのに。紙媒体になったらこっちのもんだよ。遺書に「棺桶に一冊入れてください」って書くもんね。そんな日が来たらすごいよなあ。

今日も世界のあちこちで敬意の交換が行われていると思うと、ちょっと嬉しくなっちゃうね。

ちなみにわたしの好きな活字は、【め】です。

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