〈総長対話〉に向けて「私たち」が本当にできること──東大授業料引き上げ問題に寄せて

 今回の〈総長対話〉について、藤井総長はその目的を「できるだけ多くの学生と、対話を通じて多様な意見を理解し合うこと」(回答2)と説明しながら、「理解を得られるまで複数回行うことは考えていません」(回答4)と回答している。理解し合うことを目的としながら、理解を目指していないという一見矛盾している回答に、私は当惑した。学生の様々な意見のなかには、ある理想的な対話の理念を掲げて、今回の〈総長対話〉の不誠実さを糾弾するものもあるだろう。しかし、あえて藤井総長を信頼して、彼の掲げる〈対話〉の理念を内から理解しようとしてみれば、総長の——ひどく危険な——思いなしが現れてくる。

 6月21日の〈総長対話〉で総長は、おおよそ次のような説明をするだろう。

(A) 昨今の状況において、大学の経営は厳しい。ゆえに、授業料引き上げを決定した。
(B) 学費の減免制度の拡充によって、学生の皆さんの懸念はすでに解消されている。

総長は、(A)の説明によって、授業料引き上げが合理的な理由に基づいて行われることを示す。引き上げによる増収の使途予算を公開するのも、決定の合理性を提示するものである。これによって総長は、学生に対して、経営上の決定が妥当に行われていることを理解することを要求する。一方で、(B)の説明によって、経営側がすでに多様な学生のケースを想定して制度設計を行なっていることを示す。つまり、「多様な意見」を反映させたケース・スタディを踏まえて、十全な制度設計がすでになされていることを主張する。これによって総長は、学生に対して、総長の決定が誠実に行われていることを理解することを要求する。

 それでは、授業料引き上げの決定は、正当に行われているのだろうか。一部の学生が掲げる学生の参加を求める主張、いわば「代表なくして課税なし」の議論は、この手続き的な民主的正当性を問うものである。しかし、総長は次のように反論することができる。授業料引き上げの決定は、東大規則9号「東京大学における検定料、入学料及び授業料等の費用に関する規則」10条に則って、別表1に記載の授業料が改正されることによってなされる。すなわち、「経営協議会及び教育研究評議会の審議の後、役員会の議を経」ることによって、授業料は引き上げられるのである。あるいは、実質的な議決の場は役員会に限られている。この手続きには、学生の代表の参加や学生との「対話」は含まれていない。したがって、総長は、学生に対して、その決定が手続き上は正当に行われていると主張することができるのである。このようにして正当性の理解を要求するだろう。

◇ ◇ ◇

 さて、皆さんは総長の提示する妥当性・誠実性・正当性の要求に対して、どのように応答するのだろうか。おそらく総長は、これらの三つの水準(または少なくとも前者の二つ)については、学生のうちの「サイレントマジョリティ」の理解が得られると考えていることだろう。学生は説明をすればわかってくれる。理解を求めていくことができる、という想定である。その想定は、もしかしたら確かなのかもしれない。多くの人が、総長の説明は理に適っていると考えるかもしれない。私は、そう考える。

 また、たとえ学生の一人一人が自らの立場に依拠して個人投票を行ったとしたら——こちらはより恐ろしいことに——多くの学生が授業料の引き上げに無関心であることが明らかになるのかもしれない。2021年の東京大学学生生活実態調査によれば、回答した学部学生のうち88.4%が授業料負担を「家庭からの仕送り」で賄っている。問題が自分ごとではなくなるとき、「サイレントマジョリティ」は無関心なマジョリティとなる。授業料の引き上げは、多くの学生にとっては「どうでもいい」問題になってしまっているのかもしれない。

 対話とは、人々が相互に理解しあうコミュニケーションのプロセスである、という理念を蔑ろにしてはならない。私たちは、総長が対話を通じて理解を求めている事柄を、吟味する能力を有している。現時点では権利を有していなかったとしても、である。私たちは、吟味をするなかで、「私」の立場から問題を捉えながら、同時に「私たち」の立場から問題を捉えることが可能である。同じ教室で、同じキャンパスで、同じ大学で学ぶ者たちとひとたびコミュニケーションをしてみれば、授業料引き上げの問題にそれぞれがそれぞれの思いを持ち、そう単純な話ではないことが分かることだろう。それは、活動的な少数の人々の声に代表されるようなものではない。彼女ら、彼らの声もまた理に適っているのかもしれないが、「私」の立場とは相容れないと思うこともあるだろう。私もつねづねそう思う。しかし、対話の相手は総長だけではない。「私」の立場から、少しずつ周りの人たちと話をしながら、実は「私」の周りには様々な境遇の人がいて、様々な思いや、考えや、苦しみを持っていることを理解していくことで、「私たち」の立場から問題を捉えられるようになってくる。学生同士でも、あるいはあなたの授業料を仕送りしてくれている「家庭」とでも。そのように獲得される、「私」であり「私たち」である立場から、今回の〈総長対話〉に向かい合ってみれば、総長の危険な思いなしも見えてくるはずである。私たちは、私たちだからこそ、対話をすることができるのではないか。

(2024年5月31日 東京大学教養学部自治会発行『学費問題を考える』への寄稿)

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