MVRが起きた条件を本土日本語諸方言の比較から探る

このnoteは『日本国語大辞典』の<なまり>欄および『日本方言大辞典』に載せられた語形の不完全な分析を基にした考察を述べたものである。厳密な研究を行うためには、それぞれの語形の出典にあたり、資料批判や各方言の音対応を明らかにしたうえで行うべきだが、そこまでできていない。

本土諸方言に残るpre-MVR形

これまでの日琉語学では、上代日本語のjiに琉球祖語の*eが対応する場合に日琉祖語*eが再建され、上代日本語のuに琉球祖語の*oが対応する場合に日琉祖語*oが再建されてきた(このnoteではイ甲類をCji, イ乙類をCwi, エ甲類をCje, エ乙類をCwe, オ甲類をCwo, オ乙類をCəと表記する)。上代日本語に起きた*e>ji、*o>uの音変化をMVR(mid vowel raising)と呼ぶが、MVR前の語形は、琉球祖語だけでなく、本土諸方言にもみつけられる。MVRは語末では起きなかったとする説もあるので、非語末と語末とで分けて、pre-MVR形の分布を見てみよう。

まず非語末で中央語のiに対し諸方言でeが現われる例だ。{i/e}と表示している語は*eが再建できる可能性もあるものとして挙げたもので、eが各方言の改新形である可能性もある。なお、以下で示す再建形では、諸方言でb/m交替を起こす子音に*pmを建てている。また、中央語のo(甲類)に東日本でuが対応する語がいくつかあり、この対応を暫定的に*{au/ua}と表示している。

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琉球祖語で*eが再建されている「水」「傷」「西」「肘」「蚯蚓」で、同様にeが現われる方言が、本土方言に多く見いだされることが分かる。また、琉球祖語の語形が分からない語でも、本土諸方言の比較から*eを再建すべき語が多くみつかる。*eは、主に東日本(特に東北と北陸)と山陰に保存されているが、西日本にも散在している語もある。

表から分かるように、MVRが起きた*eの出現環境は明らかに偏っている。殆どがk, p, mの後で現れ、後続する子音も偏っている。日琉祖語よりも古い段階で、*i>*e/{k, p, m}_{s, m, Ns, Nt}, *e>*i/C[+歯茎音]_Cが起きたと考えないと、この偏りは説明できない。また、rに先行する*eを含む音節は*peと頭子音のない*eに集中しており、本土方言の比較では*pirを含む語が「蒜」くらいしかなく、これも琉球祖語では*peruであるから、日琉祖語に*pirを含む語がみつからなくなる可能性もあるが、むしろ諸方言で並行的に*i>e/p_rが起きたと考える方が良い。同様に、「色」「入れる」でも*i>e/#_rが諸方言で起きた可能性がある。また「店」「味噌」の例から、東日本と山陰で*i>e/m_sが起きた蓋然性が高い。

次に非語末で中央語のuに*oが現われる例を示す。

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*oが残存している方言の分布は*eと同様に東日本と山陰が中心だが、頭子音のない語頭の*oは西日本にも色濃く残っている。なお、再建作業では以下の音変化に注意が必要だ。

・語頭の頭子音のない*iと*e、*uと*oは、東北・東関東、北陸、山陰ではある時代に一旦合流した(i/eは20世紀でも合流しているとされる)。

・西日本中心に、*ju>i, *jo>je>iが起きている。全国でi>ju/#_w(ハ行転呼後のwを含む)が起きている。*ju>joが少なくとも秋田・庄内・島根で起きている。

上代日本語と琉球祖語との比較から、語末ではMVRが起きなかったとする説もあるが、本土方言の比較から、中央語で*e>i, *o>uが起きたと見なければならない語が見いだされる。

まず語末の*oの例を示す。

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MVRが起きた*oに先行する子音に偏りがある。語末では*Nso, *no, *jo, *ro, *Npo, *pmoにMVRが起きており、*(N)ko, *so, *(N)to, *po, *moでMVRが起きている例はない。*oが残存する方言は、非語末と同様に東日本と山陰が中心だ。

次に語末の*eを示す。

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*eが残存している方言の分布に、これまでとは違う傾向がみられる。紀伊半島・淡路島・中国・四国・九州に残存し東日本に残存しない語があり、「つび」「蟹」が典型的だが、「蕨」「垣」にもそのような傾向がみられる。「虱」はより分布が広い。一方で「紅」は他のpre-MVR形と同じ分布パターンを示す。「脂」は*eがほぼ全国に分布している。前者のパターンは、紀伊半島を含まない近畿以東の諸方言の祖語段階で起きた*e>i/_#によるものであり、他のMVRよりも発生した時期が古いという仮説を提示しておく。

*eと*ɛ, *oと*ɔが対立していた時代

以上のようにpre-MVR形は本土方言にも広く分布している。日琉祖語には*ai, *oi, *ui, *auなどの二重母音が再建されているが、もし、pre上代日本語で*e>i, *o>uが起きた後に*ai>e, *ui>wi, *au>woなどの母音融合が起きたのだとしたら、融合を起こしていない方言や、他の融合の仕方をした方言も広く分布していてもおかしくない。実のところ、*ui>uを起こしている方言が東日本や山陰に、*ai>iを起こしている方言が富山県・石川県や伊賀、薩摩・大隅に(『日本国語大辞典』で「雨」「飴」「風」「酒」「髭」の分布を参照されたい)、*ai>*ə>oを起こしている方言が東海東山に認められる(「杖」「苗」「笛」のヤ行音だけに残る)。しかし、語例も分布範囲も極めて限定的であり、非常に古い時代に起きた音変化が限られた方言に残っているのだと思われる。そこで筆者は、中央語は非常に古い時期(弥生時代?)に*ai>ɛ, *au>ɔを起こして(通説の)日琉祖語の6母音体系から8母音体系に移行し、これによる押し連鎖で*e, *oが半狭母音化したと考える。この段階を「前上代日本語」とする。前述の*i>/p_rの変化により、同じ環境にあった本来の*eは、*e>*ɛ/p_rを起こした(例えば「箆」上代日本語:pjera)。*e, *oは、やや時代が下ってから環境に応じてi/uとɛ/ɔへ分裂して統合された。

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前上代日本語で半狭母音と半広母音の対立があったという仮説は、ナ行で起きている母音シフトからも支持される。中央語のヌという音節が、他の方言でも安定してヌで現れる語は、ほとんどない。大抵、ノだったり、二だったり、ネで現れる俚言形がある。語末では「犬」「絹」において中央語で*no>nuが起きていると考えられるが、「角(つの)」「布」ではこの音変化を免れている。この問題は、日琉祖語>前上代日本語で*nu>*no, *no>*nɔが起きた後に、中央語でMVR *no>nuが起きたとみることで解決する(つまり、日琉祖語には*{i/e}nu, *kinu, *tuno, *ninoが再建される。「布」の*niは後述)。また、ナ行変格活用動詞「往ぬ(る)」は、西日本各地にイノルという語形があり、*nu>noが起きたことが明白だ。他方、「布」「糠」の第一音節では上代東国方言や北陸・山陰にni, neが現われる。おそらくこれらは中央語で*ni>nuが起きたものだろう(「布」はノノという方言が圧倒的に多いが、第2音節による逆行同化だろう)。このようなナ行の母音シフトは、「虹」「猫」「庭」「蓑」「煮る」(「膠=煮皮」参照)などで起きたと考えられる*mj>nによって、本来の*niが押し出された連鎖の結果と思われる(*mj>nについてはKanade Tokaimori 2020「A short introduction to the Kanade Reconstruction of Proto-Japonic」参照)。非語末のナ行音の、暫定的な方言間対応関係を示しておく。

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MVRが起きた条件

MVRが起きている*e, *oと、起きていない*e, *oの出現環境の分布から、MVRが起きた条件について以下の仮説が立てられる。

(1) 非語末において、前上代日本語の*eは、無声子音に挟まれた環境で保存され(例:蝉*sepme, 桁*keta)、それ以外の環境でjiへ合流した。ただし「紅」「怪我」は反例となるかもしれない。

上代日本語の非語末のo甲の例は限られている。また、甲乙の分からない非語末のオ段音のうち、有坂・池上法則から甲類だと予測される語例では、その音節はコ、ソ、ト、ホであり(例:粉*kona、瘤*koNpo、他*poka、側*soNpa、虎*toraなど)、ノ、モ、ヨ、ロはない。非語末で*o>uが起きている音節は、前掲の表で分かるように*no, *mo, *jo, *roに集中している。以下の仮説が成り立つ。

(2) 非語末において、前上代日本語の音節*to, *poでは*oが保存され、音節*Nko, Nso, *no, *Npo, *mo, *jo, *roでは*o>uが起きた。共鳴音・摩擦音に先行する*soでは*o>uが起きた(例:裾、薬)が、破裂音の前では*soが保存された(例:側、袖)。音節*koでMVRが起きた条件は未解明。

語末の*oに関しては、上代日本語の語末のo甲と結びつく子音と、諸方言の比較から*o>uが起きていると推定される*oと結びつく子音が、概ね相補分布している。その分布から以下の仮説が成り立つ。

(3) 語末において、前上代日本語の音節*po, *(N)to, *(N)ko, *so, *moでは*oが保存され、*Nso, *no,*Npo, *jo, *roでは*o>uが起きた。ただし*roには上代日本語pukurwo(袋)、murwo(室)という反例がある。

語末の*eがMVRを起こしている語例では、その語末音節は*ne, *me, *Npeのいずれかだ。*keも、現れる方言が非常に少ないものの、可能性はある。上代日本語で名詞末尾のkjeを持つ語がほぼ皆無であることから、*keは広範な方言でMVRを起こした可能性がある。

(4)語末において、前上代日本語の音節*pe, *te, *se, *reでは*eが保存され、*ke, *ne, *me, *Npeでは、*e>iが起きた。

現代日本語の語末には甲乙の分からないネ・メが大量にあり、(4)が正しいと言うためにはこれらが比較的新しい語であるか*nai, *mai, *miaのように二重母音を含んでいた証拠を示さなければならない。前述のように語末の*e>iについては*eの保存される方言の狭さ、西日本への偏りからして、他のMVRより古い時期に起きている可能性がある。

さて、これまでに見てきたMVRの起きた条件は、一見すると複雑なように見えるかもしれないが、一定の傾向が見られる。*e, *oを含む音節の子音が破裂音である場合にMVRが起きにくく、共鳴音である場合にMVRが起きやすい。また、清音よりも濁音の方がMVRが起きやすい。このことから、i, uの無声化・脱落が起きる環境でMVRが阻害され、無声化・脱落が起きない環境でMVRしていたと考えることができる。すなわち、上記(1)~(4)で示したMVRが起きる条件は、当時の中央語においてi, uの無声化・脱落が起きていた条件の裏返しではないだろうか。例えば、当時は無声子音に挟まれていたiが常に無声化していたために、同じ環境にあるeがiに聞き誤られることはなかった。そのために(1)のような条件でMVRが起きた。非語末で音節*tu, *puはuが常に無声化していたために、*to, *poはMVRを阻害された。語末では*pu, *(N)tu, *(N)ku, *su, *muのuが無声化または脱落していたために、*po, *(N)to, *(N)ko, *so, *moがMVRを阻害された。このように考えられるかもしれない。

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