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我々は「VTuber」を愛しているのか? ─アクシア・クローネについて

 VTuberにどう向き合うべきか

 ロボティクスやクローンに関連した諸問題において、「法律が技術に追いついていない」というのはよく言われる。そもそも、人が新たな生命体(らしきもの)と対峙した時、その向き合い方には必ず論争が起こる。それと同じように、現在のVTuber業界は追いついていない部分が多すぎるように思う。
 
 今はまだVTuberの存在を定義することが難しく鑑賞態度も正解が分からない状態だから、一概に厄介リスナーを責めるわけにもいかない。なにより、明文化されていない道徳は法律よりもさらにアップデートが遅く、共有に時間がかかる。「半年ROMれ」はその難しさを端的に表している。

 4年前からVTuber業界を観測してきたが、この業界は芸能人やアイドルはおろか、一般的なYouTuberよりも圧倒的に新陳代謝が早い。流動性の高さはシーンの盛り上がりに直結するが、それにしてもあまりに急速にシーンが移り変わっている。果たして、今のVTuberファンの何割がのじゃロリおじさんやBANsを知っているのだろう。いや、四天王でさえもどうか分からない(僕が見始めたのは2017、2018年あたりからです)。

 にも拘らず、VTuberにどう向き合うか─すなわちリスナーの鑑賞態度に関する価値観は膠着状態に見える。Vに関する規範の議論は、積極的にされているとは言い難い。

 それは、「尊い」と言って抽象度が高い状態で好感を示すことができる文化的バックボーンもあるのだろう。しかしこのままでは、この業界はいずれ荒んでしまうはずだ。アクシア・クローネに起こった件の問題を再発しないために、我々リスナーはいま一度VTuberとは何なのか考えなければならない。

 アクシア・クローネについて

 にじさんじ所属のライバー、アクシア・クローネが無期限の活動自粛を宣言したのはつい数時間前だった。僕も以前から彼のAPEX配信をちょくちょく見ていたが、コメントは見ないため今回の事態は驚きが強かった。彼を悩ませた一番の原因は強引にまとめれば「リスナーとの距離感」なのだが、特にVTuberはこの問題が微妙なのだ。

 例えば、我々が「VTuber」と呼ぶとき、その言葉は何を指し示すだろうか。イラストや3Dモデルなどのビジュアルを指すと答える人もいるし、配信者(中の人)と答える人もいるだろう。だが大抵の人は二つを同時にまとめて「VTuber」と呼ぶのではないだろうか。であれば、VTuberの構成要素は「アバター」と「配信者」となる。

 ここで興味深いのが、このどちらかが欠けた場合でも、我々はVTuberをVTuberとして認識できる点だ。VTuberがツイキャスやスペースで喋る時、そこにアバターはいないがVTuberとして認識する。あるいは、配信中に何らかの理由で配信者が離席し、音声と動きが停止しても、「今はVTuberではない」といちいち再確認したりはしない。

 だが、この例にそぐわない事例も存在する。代表的なのは、途中で声優が交代した「ゲーム部プロジェクト」や、キズナアイが4人に分裂した際のリスナーの反応を挙げられよう。VTuberファンは、配信者が交代することには拒否反応を示す。

 これは、アニメにおいて声優が交代するのとは大きく異なる。少なくとも、「声優が変わったから見るのをやめた」と言う人は、アニメファンよりVTuberファンの方が多いだろう。

 一方で、VTuberのアバターが変更されることは、大抵のリスナーはすんなり受け入れる。ただし注意したいのは、新衣装という微細なレベルではなく、印象がガラッと変わりながら(時にはイラストレーターすらも入れ替わりながら)同名のVTuberとして活動を続ける場合だ。例えば、にじさんじの成瀬鳴や安土桃のような事例。このようなケースは権利問題が絡むことも多いが、これをきっかけにファンを辞めるという人はあまり見たことがない。


 ここまで聞くと、VTuberの構成要素のうち、どちらかといえば我々が好きなのは「配信者」自体であるかのように感じるかもしれない。だが、おそらくそれでも何か足りない。

 我々はVTuberの何を好いているのか。それは、配信者が作る「コミュニティ」なのだ。アバターや配信者を好いているのはもちろんだが、最終的な価値はファン同士で形成する共同体が担っていると推測する。

 このコミュニティでは、ただファン同士が繋がっているだけではなく、配信者に対して総ツッコミを入れたり、あらゆる反応を示してそのVTuberを共に形成していく。リスナーを一つのまとまりとするならば、VTuberは複数でありながら一つのまとまりであるリスナーと対話しているのだ。ファンネームやファンマークはその意識をより支えているだろう。
新八角が述べる“共有の「場」”とはこのことを指すのではないか。

一方、VTuberは逆様です。既に述べた通り、そこには最初にキャラクターが存在します。当然、それが確かさの保証となっているわけで はなく、むしろその記号的なキャラクターは存在の感触というものか らは程遠い。だからこそ、キャラクターは一度、解体されなければならないのです。なぜなら、この解体の瞬間にこそ、VTuberの本当のキャラクターが作られる契機が生じ、共有の「場」の可能性は開かれるからです。

新八角「月ノ美兎は水を飲む」『ユリイカ2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber』(青土社,2018)

 だからこそ、この「場」には規範が必要であり、規範の内容はVTuberによって異なる。

 今回の件で、「ガチ恋やめろ」とか、「母親ヅラは良くない」という言説だけ一人歩きしてしまうのは良くない傾向だと思う。実際、ガチ恋や母親・恋人ムーブを許容するVTuberは多くいる。最も強調すべきは、「郷にいれば郷に従え」だろう。「概要欄読んどけ」と換言しても良い。

 僕は、群雄割拠のVTuberに配信を「部屋」のように捉えている。VTuberの配信を覗きに行くのは、かつて熱中した『アメーバピグ』における“部屋の訪問”に近いと感じる。ピグには、入室ルールが設けられていることがあったが(服装を統一するなど)、当然ルールから逸脱する者は現れる。どこの場所、どこの時代にもそういうことは起こり得るのだ。

 新しい場所は、新しい歴史を紡ぐのではない。むしろ、同じことの繰り返しを、手を変え品を変え再現しているのだ。裏を返せば、VTuber文化も、滅びていった多くのインターネットコンテンツと同じ轍を踏む可能性は高い。

 やはりここで一度整理すべきなのだ。自分にとってVTuberとは何で、どのように向き合うのが正解なのか。他人を咎めるよりも先に自分が意識することで、流れは大きく変わるだろう。


 余談

 ここからはただの雑談なのですが、「推し」という言葉は本当に凄いなぁと思います。かつての「萌え」にはなかった双方向的なやりとりを前提にしつつ、「担当」ともまた違ったニュアンスを持っています。

 ただ気になるのは、この言葉は現在、フィクションにもリアルにも適用されていることです。アニメキャラを「推す」ことも、アイドルを「推す」ことも、(それが良いかどうかは置いておいて)果てには卑近な友人でさえも「推す」ことができるのです。少なくとも、「萌え」が現実の友人を指すことはなかったはずです。

 これはある意味で、現実も虚構も何もかもをフィクション化していると言えます。同じ言葉を用いることで、アニメのキャラとリアルの友人を同じ陳列棚に並べることも可能なわけです。

 ではVTuberに対してどのような態度が望ましいかと言われると、少し難しい。VTuberは二次元の存在でも、三次元の存在でもないからです。

 しかし、我々はあまりに現実をコンテンツ化することに慣れてしまった。SNSに投稿する行為はコンテンツ化することとほぼイコールです。そんな状況だと、例えばVTuberにガチ恋する人たちを笑うことが僕にはできません。自分がいつでも厄介リスナーと呼ばれる心構えをしています。VTuber自身がやめてほしいことはもちろんダメですが、行動に移さずともそうなる心理は分かります。綺麗事っぽくて嫌ですが、冷笑ではなく理解から始めないと問題は解決しないでしょう。

※ここではリスナーとファンを同じ意味で使っています。その時の気分でコロコロ変わってますが、特に意図はないです。

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