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「エモいとは何か」を総括する──四象限分析、価値反転作用、ブルーライト文芸、物語性、エモ映画、エモ消費

 2022年の夏、『青春ヘラver.4「エモいとは何か」』を発行してから約半年が経った。

全編「エモい」という一つの形容詞についていくつかの観点から考えられたこの同人誌に僕が寄せた文章は、「『エモ』と『アオハル』の20年代」だった。エモについて書いたというよりも、自分なりに感傷マゾと青春ヘラを総括するような内容だったが、結果的にこれまで同人誌で書いた文章の中で最も長いボリュームとなった。
 せっかくの機会なので、その文章の中から「エモい」に関する箇所を抜粋し、加筆・修正を施したバージョンを投稿したいと思う。これからも続いていくであろうエモとアオハルの20年代を見通す、展望台のような文になれたら幸いである。

 「エモ」の四象限

 まずは「エモい」の一般的な意味を確認しよう。「エモい」は多くの意味を包含し、個別の意味を比べると相反することさえある。この多様性こそが、エモいが若者を中心に多く受け入れられた理由でありながら、同時に用語の難しさたる所以でもある。こちらの画像はエモを支える意味をある程度網羅している。

ヒノキブンコ「「エモい」の意味は?どう使う?〜心の素敵な揺れを3文字で射止めた言葉」『ふじのーと』https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/emoi_imi.html(2022年7月17日最終閲覧)

 「エモい」という単語は、音楽用語の「Emo」から派生して「エモーショナルな心情」を表す形容詞として定着した、とするのが一般的な説である。音楽ジャンルとしてのEmoは次のように説明されている。

 エモはメロディアスで感情的な音楽性、そしてしばしば心情を吐露するような歌詞によって特徴付けられるロック・ミュージックの1スタイルである。

「エモい」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』、https://ja.wikipedia.org/wiki/エモい

 しかし、エモはもはやそんな単純な意味ではない。時代の流れと共に非常に多くの意味を巻き込んで、今も肥大化している。まずは言葉のレベルに立ち返ってエモの意味について考えていきたい。エモが内包するこれらの意味は、一見散在しているように見える。だが、次のように分類するとかなり明瞭な理解ができるのではないだろうか。

「エモい」の四象限分析

 X軸を時間の流れとして、「現在」と「過去」で対置した。また、Y軸を感情の方向性として、「ポジティブ」と「ネガティブ」で対置した。以上のような四象限のどこにそれぞれの意味が当てはまるのか、具体的に見ていこう(なお、判別が難しい感情に関しては括弧書きした)。

 

①第一象限 現在におけるポジティブな感情としての「エモい」

 ヤバい、感動的、趣深い

 まず、「エモい」には現在を志向するタイプと過去を志向するタイプがあることを確認したい。「ヤバい」や「感動的」など、感情が揺れ動いた時に使う「エモい」は専ら現在の対象を指している。夕焼けを見て「エモい」と思うならば、エモい対象はまさに目の前にある夕焼けを指しているのであって、過去の対象をエモいと言っているわけではない。稀に「エモいは現代版の『をかし』だ」という説明がされることがあるが、古語の「をかし」は目の前にある対象について「趣深い」と言う用例が多いため、過去を志向するエモまで含めて「をかし」で語るのは齟齬が生じる[1]。

②第二象限 過去におけるポジティブな感情としての「エモい」

 しみじみ、懐かしい、レトロ、(郷愁的、ノスタルジック)

 では、過去を志向する「エモい」とは何か。それは、失われてしまった対象について向ける感情としての「エモい」となる。廃校も寂れた商店街も元恋人も学生時代も、それが決定的に失われていて手が届かないからこそエモいのだ。それを好意的な感情として受け止めると「しみじみ」、「懐かしい」と思える。最近は「平成レトロ」なる流行があるが、レトロという言葉自体、失われた対象を好意的に捉えていなければ出てこない。
 思い出は時が経つにつれ美化される。過去を振り返って「あの頃は青春だったな」という言い方でしか青春を認識することはできない。青春の文法には過去形しかないのだ。だからこそ、気づいた時に必ず失われている「青春」はエモいのだ。

③第三象限 過去におけるネガティブな感情としての「エモい」

 もの悲しい、切ない、寂しい、哀愁、感傷的

 いくら美化されても思い出すだけでペシミスティックになってしまう過去も存在する。あくまで「痛み」として認められる「もの悲しい」、「切ない」などの感情は、③のような前向きな捉えられ方はされていない。本来的にマイナスなこれらの感情が「エモい」のフレームに収まることでプラスに転ずるプロセスについては、後述する。

④第四象限 現在におけるネガティブな感情としての「エモい」

 退廃的、背徳的

 「ヤバい」や「感動的」としての「エモい」はポジティブな意味合いで使われることが多い一方、現在におけるネガティブな要素まで「エモい」と言うことも可能だ。例えば、浮気やタバコ、酒といった単語はエモい(らしい)。もちろんこれには、後述する「エモ映画」の影響もあるし、〈物語性〉もキーワードだろう。
 ①の現在的なエモいは「青空」や「夕焼け」などを対象とする傾向があるが、④は夜のエモさを指している。夜のエモさはどこか退廃的で背徳的だ。夜のエモさを中学生の視点から描いた漫画『よふかしのうた』は分かりやすい例だし、YOASOBI、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。などの「夜」を軸としたアーティストがエモーショナルな楽曲を発表してきたことも関係するだろう(ちなみに、三者のファンを総称して「夜好性」と呼ぶ)。特に『夜に駆ける』は自殺や死といった要素まで巻き込んで独自のエモさを形成している。それらのセンシティブな感情と夜は相性が良く、2021年公開の映画『サマーゴースト』は第四象限のエモを完成させた作品と言える。

アニメ『よふかしのうた』第一夜(公式サイトより)
YOASOBI「夜に駆ける」

「エモい」の対立軸

 『青春ヘラver.1』所収「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」で行ったエモの調査では、Instagramで「#エモい」と検索して出てきた写真を分析することでエモの輪郭を捉えようとした。結果、エモい写真とは、「夕焼けや青い海の写真」、「薄暗い、または少し画質の低い写真」、「学校の友達との写真(卒業、遠足、学校祭など)」に分類できると当時の僕は結論づけた。
 改めてこの結論を見直すと、ビジュアルイメージのエモいには、ポジティブ/ネガティブの軸が関わってくると言えよう。まったく逆方向の感性を統合的に「エモく」する力が働いている。これは興味深いことだ。

「エモい」の価値反転作用

 多くの人にとって、「エモい」とは好意的な状況を表す言葉だ。到底受け入れられない悲痛な状況を形容するために「エモい」を使うことはほとんどないだろう。語句の使用法としては少数派である。
 では、③や④のようなネガティブな感情でさえ「エモい」の下では好意的に捉えうるのはなぜだろうか。「エモい」の意味に挙がっている「悲しい」「寂しい」「退廃的」「背徳的」などのマイナスの感情がプラスに反転する仕組みは、どのように説明できるだろうか。

 ここで、『魔の山』や『風立ちぬ』において、結核が美的に扱われる現象を美学的に考察した『危険な美学』を取り上げよう。この本の第三部では、19世紀に流行した「結核」がある種の美的表象として認知されていた事実を下敷きにしながら、トーマス・マンによる小説『魔の山』において、主人公が結核患者であるショーシャ夫人に人一倍魅力を感じていたことを美学的視点から考察している。要は、結核が女性の魅力を高め、男性の観能力を高めた結果生じる「美的変貌」(マイナス要素が反転してプラス要素を引き立てる現象)のメカニズムを探っている。
 その中では、倒錯の謎を説明するシステムとして「隠喩」「美的カテゴリー論」「感性の統合反転作用」が紹介されているが、ここでは主に後半二つを扱いたい。著者の津上は、岩代見一の『感性論―エステティックス』を引きながら、とあるカテゴリー(=私たちの経験の奥で働いている〈ものの見方〉)を内面化した我々の『見方』と対象の見え方が感覚の像を結ぶことで「美的なもの」が成立すると言う[2]。
 ひとつ例を挙げよう。コレサワによる楽曲『タバコ』は、SNSで広まり、「エモい曲」として多くの人に愛されている。歌詞によれば主人公の女性は恋人と別れた直後で、タバコの匂いを嗅いでその恋人を思い出してしまう辛さを描いている。失恋・タバコ・後悔。決してポジティブとは言えないこれらの名詞が「エモい」とパッケージングされることで一種の美的感覚に結びつく時、美的カテゴリー論に則れば、美的カテゴリーとして「エモい」を内面化した我々の『見方』と、対象の『見え方』が「エモい」という像を結んでいることになる。

 では、なぜタバコというアイテムがエモい『見え方』をするのか。そもそも、エモい『見方』に応えてくれるアイテムはどのような特徴を持つのか。それは一言で言えば、〈物語性〉である。


「エモい」と〈物語性〉

 「失恋」や「後悔」などの名詞は、それを発話する時点で時間の経過を暗示する。あらかじめ過去を内包する単語は、他の単語に比べて一定程度の〈物語性〉が担保される。人は、対象の背後にある〈物語性〉を感じ取った時に「エモい」と感じ、その物語密度が高いほどエモさは増幅する。もちろん、これは言葉のレベルだけでなく、写真やイラストにも言えることだ。最近は「エモい写真集」が上梓される流れが増えてきたが、これらの写真集でもやはり〈物語性〉は意識されている。エモい写真集でコアとなるテーマは、「夏」「女子高生」「アニメのような」など、それだけで何らかの物語を受け手に想起させるものがよく使われる[3]。『写真からドラマを生み出すにはどう撮るのか?』の出版は、写真のエモい方法論が確立したことを示している。一部引用しよう。

 では、ポートレートの場合はというと、モデルの眼差しや仕草、表情を見て、今まで経験してきたいろいろな出逢いや別れを想起させることができれば、それは情景ポートレートになり、誰かの感情を動かすはずだ[4]。

 当然、写家業界の常識として、「見た時にドラマを想像させる写真=良い写真」の認識はこれまでもあっただろう。しかし、その回路がいっそう分かりやすく言語化されたのは「エモい」の感性が人口に膾炙した影響が大きかったのではないだろうか。この本でも、女性がタバコを吸っている写真は何枚か登場する。
 タバコや不倫は〈物語性〉によってエモくなるという主張に納得できなければ、別の例を援用しよう。SNSを見ていると、〝この展開はエモい〟のような用法が確認できる。「エモい展開」の例では、「序盤のシーンが最終回で再現される」「同じ台詞でも序盤と終盤で意味が変わる」「アニメの最終話タイトルが作品タイトルと同じ」と、無限に思いつく。実際、これらの「エモい展開」を好む傾向は、作劇派、構造萌え、展開萌えなど様々に名付けられており、エモい展開のファンが一定数存在することは説明不要だ(創作物のあるある展開をまとめた海外サイトTV Tropesでは、エモい展開がBookendsと名付けられて大量の作品が紹介されているのでぜひ参照して欲しい)。

 たった今挙げた例から分かる通り、エモい展開には序盤と終盤の対比があるものが多く、一定の時間差を要する。時間差は物語を生み、物語はエモいからだ。


感性の統合反転作用

 話が逸れたが、以上が「美的カテゴリー論」に則ったエモいの考察だった。だが『危険な美学』では、この論が主観に依存しすぎており(『見方』の変化にしか言及できていないため)、対象の客観的変化については説明できない点を指摘している。そして、それを克服する理論として紹介されるのが「感性の統合反転作用」だ[5]。この理論を簡単に説明しよう。
 苦味と甘みは混ざると深い甘味になり、白と赤を混ぜるとピンクになるが、二人が同時に話すと互いの言葉は理解不能になる。隣接する現象において、二つ以上の要素は独立をやめて一つに統合されるか、独立の存在であり続けるために一つにまとまらないかのどちらかであると津上はまず述べる。つまり、感性は二つ以上の要素を統合して捉える(色・味)が、知性はそれらを独立して捉える(言語)。ただし、和音は各音が二つの実体であることと独立の二つの実体でなく一つの実体の二つの要素であることが両立する特殊な要素である。
 このことから、次の二つのことが導ける。

 ①感性は二つの実体を一つに統合して捉える働きがある。
 ②苦甘さや和音のように、二つの実体を感性で統合して捉える際に一方の負の値が正の値に反転する


 本来好ましくない味覚である「苦み」は、ビターチョコレートにおいて、甘みを引き立てる要素としてむしろプラスに捉えられている。同じように、『魔の山』にて夫人を 「妖艶」と形容するとき、容姿に関する負の要素と、腕の白さという唯一の正の要素が一つに統合され、負の要素は「妖艶」さに不可欠な要素へと変貌する。眼が細いにもかかわらず妖艶なのではなく、眼が細いゆえに妖艶だ、と言うことが可能になる。
 「エモい」は基本的に好意的な解釈を下す言葉であり、正の要素である。不倫やタバコなどのアイテム、あるいは退廃的や背徳的といった形容詞はふつう負の要素に分類されるが、それが正の要素である「エモい」と結びついた時、それは一気に正の値になる。もちろん、この反転作用は状況によっていくらでも変化する。これは、同じ単語が文脈によってエモくもエモくなくもなるのと似ている。だから、エモいを客観的に分析しようとすること自体、かなり不毛ではあるのだ。いずれにせよ、マイナスの要素が「エモい」の上でプラスに転ずる作用については、美的カテゴリー論と感性の統合反転作用の切り口から考察することが可能で、特に前者の場合〈物語性〉がキーワードであることを示唆して一旦区切る。
 ところで、最近は単に言語化が難しい感情を「エモい」と表すことも増えてきた。「えもいえぬ」の略語として機能しているのだ。これに関しては音楽ジャンルEmoと明らかに別の流れがあるため、いずれまた研究したい。

感傷とエモの違い

 感傷マゾと青春ヘラの「マゾ性の希薄さ」の違いは、「現実─虚構」観の変化によるところが大きい。感傷マゾがマゾであるのは、「青春とは虚構である」という絶対的条件によって落差が生じ、それに気付いた際の感傷がマゾヒスティックな快楽に変容するからである。一方、青春ヘラはむしろ、現実と虚構の接近によって境界が曖昧になったがゆえの現象だと言える。僕にとって、あるいは僕と似たような年代の人間にとって、理想的な青春像が虚構だと言い切ることはとても難しい。それにはSNSや広告など多種多様な要因があるのだろうが、コロナウイルスによって現実ですら全て虚構に帰してしまった。北極ではコンパスの向きなど役に立たないように、青春が一様に虚構になってしまった我々にとって、もはや現実と虚構の区別など意味が無いのだ。それにより、青春ヘラはより虚構的な「エモ」に寄ることとなり、結果として若年層に最適化された形となり、ある種の世代論と接続することにもなった。
 ここで感傷とエモについて軽く整理したい。感傷はどのように生じるのか。それは、自分の経験や記憶と外部が呼応した時に生じる。もし失恋ソングを聴いたとしても、恋愛経験のない人間が感傷に浸ることは難しい。だからこそ、感傷はその人だけのオリジナルな感情として成立し、ジャンル化できない。
 一方で、SNSを見ていれば分かるとおり、エモは他人とのシェアに長けている。自分の経験や記憶に関係なく、ある一定の条件が揃えばエモさは発生し、それはほとんどの人にとって理解可能となる。
 感傷とエモの違いは「主体性」、要するに自分とどれくらいの距離感で消費できるかということになるだろう。エモい作品でも感傷に浸ることはもちろんできるが、その場合はエモい要素と自分の中の思い出や感覚を呼応させるプロセスが必要となる。自分の中の何かを差し出すことで、感傷は生じる。そして、差し出さなければならない「自分」とは十人十色であるためジャンルにはなりにくい。ところが、エモというワードは、自分と切り離した感情の消費を可能にした。自分に思い出がなくても、傷つかなくとも「安全に痛い疑似感傷」を体験できるのがエモ消費ということになるだろう。「感傷」にマゾが接続可能だが、「エモ」にマゾがくっつかない理由はこれにある。コミックLOの有名なコピーに「夏はそこにあって、少女はそこにいる。でも僕はどこにもいない。」があるが、このコピーは最後に「僕」という要素が急にねじ込まれることで一気に感傷となる。他方、最後の「僕」という主体を剥奪し、その世界から脱出するとエモが完成する。もしもこれが青春18きっぷのキャッチコピーならば、「夏はそこにあって、少女はそこにいる。」で終わるはずなのだ。
 「主体性」の議論は、「メタ視点」と換言しても成り立つ。セカイ系同人誌『ferne』収録の座談会「セカイ系・日常系・感傷マゾ」では、「エモい」と思うには「メタ視点」が前提とされる、という話題が出る[6]。そこでヒグチは、「『GJ部』は、大人キャラクターとしてメタ視点の依り代を導入するのではなく、キャラクターたち自身が自分たちの青春をメタ視していくように変化したという意味で、日常系の洗練を象徴する作品だった」としながら、「そしてその洗練の先にあるのが、いわゆるポストアポカリプスものだという考え方もできる」とも言っている。すなわち、既に滅んだ世界は我々が暮らす日常世界に対するメタ視点として導入されており、だからこそ日常系や終末作品はエモいのだ。同様に、座談会内でサカウヱは、アニメ『呪術廻戦』の二期ED映像を参考にしながら、スマホで映像を撮っている演出を導入することで獲得されるメタ視点について述べている。
 昨今、若者の間で話題になった映画を思い出してみても、メディアによるメタ視点の導入は意識的に使われている。2022年の傑作邦画『やがて海へと届く』(2022)は前時代的なビデオカメラが常に視点の一つとして提示され続けるし、闘病もの+失恋+RADWIMPSというてんこ盛り映画『余命10年』(2022)でも、ヒロインが撮影していたビデオカメラが印象的に登場する。画質が悪く、それ自体がレトロブームの流れで「エモい」アイテムとされるビデオカメラが、メタ視点をもたらしている。アイテム的にも構造的にも「エモく」なるという、二重のエモさがこれらの映画には見て取れる。
 メタ視点が導入されることは主体性が薄まることに他ならない。感傷マゾも感傷の段階ではメタ視は発生しない。それをマゾヒスティックに消費する段階に移る際、自分を俯瞰するアクションが要求される。ある意味、自虐は主体的でありながらメタ視点が要求される特殊な位置を占めている。だから、自己陶酔の独白とメタ視による諦念が織り成される『秒速5センチメートル』は感傷的でもありエモくもある。

エモ消費

 『超ソロ社会』にて荒川和久は、所有価値としての「モノ消費」から体験価値としての「コト消費」へ、「自己実現のための消費」から「コミュニケーションのための消費」へ移行する先に「エモ消費」を設定した[7]。だが荒川の「エモ消費」の語義はかなり特殊だ。「エモい」がこれからの消費のポイントになるとの意見は賛同するが、そのモチベーションが「承認欲求」と「達成欲求」だというのは腑に落ちない。エモ消費とは、経済活動の在り方そのものを指すのではなく、コンテンツとの向き合い方のことだと思う。もし経済的な「消費」が付いてくるとすれば、作品に向ける姿勢を前提とする旨を説明すべきだ。
 『動物化するポストモダン』で東浩紀は、大塚英志の提唱した「物語消費」(商品そのものではなく、それを通じて背後の「大きな物語」=世界観や設定を消費する形態)が「データベース消費」(物語そのものではなくその構成要素が消費の対象となるようなコンテンツの受容のされ方)に置き換わっていると指摘した[8]。
 奇妙なことに、エモ消費はこの物語消費とデータベース消費を組み合わせたような消費形態を取っているのだ。
 物語消費の指す「物語」は世界観と置き換えた方が正確であるため、エモの特徴である〈物語性〉と安易に結びつけるのは危険だが、例えば少女が海辺でカルピスを飲む写真を見たとき、我々はその一枚の写真からあらゆる設定や世界観を想像する。誰と海に来たのか。なぜ来たのか。中学生なのか、高校生なのか。そんなことを想像した時の奥行きや余白こそが物語性を生むのだ。
 一方で、少女・海・カルピスといった特徴はエモ要素の組み合わせによって成立しているため、写真にエモさを感じた際には「エモ要素のデータベース」を消費しているとも言える。
 エモの外縁に関してはこのくらいにして、次からいよいよエモの具体的な作品分析に立ち入ろう。 

ブルーライト文芸の確立

 「ブルーライト文芸」とは、僕が個人的に使用している造語で、〝エモいイラストを表紙に使ったライト文芸〟を指す。ここでいう「エモいイラスト」とは青もしくはオレンジがベースの、逆光表現が効果的に使われる情動的なイラスト群を指す。一目見れば「これはエモい」と分かる。そのような小説作品には『君は月夜に光り輝く』、『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない』、『どこよりも遠い場所にいる君へ』など多数の人気作が含まれており、ジャンル化できる域に達していると感じたためにこのように呼称している次第だ。

佐野徹夜『君は月夜に光り輝く』


阿部暁子『どこよりも遠い場所にいる君へ』


 もともとあった「ライト文芸」なるジャンルのうち、青っぽい表紙のものがこれらの作品に当てはまることが多かった(それは当然、エモのビジュアルイメージは青が一般的だからだ)ために「ブルーライト文芸」と名付けた。ちなみに、電子書籍が影響力を持ち始めたケータイ小説の系譜を汲むジャンルとしての「ブルーライト」文芸のダブルミーニングでもある。
 一連のTogetterまとめ[9]を発端として、様々な言及があり、2022年11月に発行された合同誌『負傷』にも「ブルーライト文芸座談会」が収録された。
 そもそも、ライト文芸とは何だろうか。『ライトノベルの新潮流』によれば以下のように説明される。

 ライト文芸とは、一言でいえばライトノベルのように個性の強いキャラクターたちによって織りなす小説群のこと。主に文庫書き下ろしとして刊行され、ライトノベルやマンガ、アニメなどで活躍するイラストレーターたちによって表紙イラストが描かれることが多い。ライトノベルとの違いは、主人公たちの年齢が大学生以上に設定される場合が多く、どちらかと言えば社会人女性をターゲットにしているところだ[10]。

 ライトノベルが明確な定義を与えられていない以上、ライト文芸もレーベル毎・作者毎でしか語れないが、ライト文芸を出版しているレーベルではメディアワークス文庫、新潮文庫nex、スターツ出版文庫、集英社オレンジ文庫あたりが有名だ。作者単位だと、佐野徹夜、いぬじゅん、冬野夜空、阿部暁子らが分かりやすい。
 現在、ブルーライト文芸はTikTokでの広告も相まって中高生を中心に支持を得ている。しかし、引用では社会人女性をターゲットにしていると書かれている。確かに、数年前のライト文芸では高校生主人公が今より少なく、年齢層がやや高めに設定されていた。それは、ライト文芸史上最大のヒット作が『ビブリア古書堂の事件簿』シリーズであることや、10年代にヒットしたのが『謎解きはディナーのあとで』などの文芸寄り作品だったことからも分かる。実際、2014年に発足した富士見L文庫は、「大人の文学少女」をメインターゲットに据え、あやかし系や後宮ものでヒット作を生み出しているし、ビブリア古書堂シリーズ以来のミステリ人気は知念実希人や辻村七子によって受け継がれている。
 ライト文芸自体は2014年からジャンル化されているが[11]、ブルーライト文芸をひとまとまりとして認知できるようになったのは2016年以降となるだろう。2016年は『君の名は。』の公開年でもあり、『君の膵臓をたべたい』が本屋大賞で二位を獲得した年でもある。ブルーライト文芸は、明確に2016年以前と以後で分けられる。
 最初期の作品では、有間カオルの『太陽のあくび』(2009)の表紙がそれに近い。この作品は親との衝突や恋愛などの青春要素も含むが、基本的なテーマは特産品による地方創生であり、ライト文芸的な位置付けとしては前年に出版された『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』に隣接していると見ることもできる。

有間カオル『太陽のあくび』

 これ以降は、入間人間の『昨日は彼女も恋してた』(2011)、三秋縋の『三日間の幸福』(2013)、河野裕の『いなくなれ、群青』などにその萌芽を感じられるが、まだ帰納の段階である。これが確固とした像として演繹され始めるのが2016年だ。
 『君の名は。』が及ぼした影響は、アニメ・映画業界だけでなく、ライト文芸にも大きかった。加えて、住野よるの『君の膵臓をたべたい』は、表紙こそエモさを押し出したわけではなく落ち着いたテイストであるものの、以降のライト文芸における難病ものブームの火付け役となった。余談だが、ブルーライト文芸でのloundrawの功績は絶大だ。キミスイの表紙を手がけただけでなく、入間人間の『僕の小規模な自殺』や、佐野徹夜の『君は月夜に光り輝く』『この世界にiをこめて』『さよなら世界の終わり』も担当している。また、自身も小説『イミテーションと極彩色のグレー』を執筆し、エモーショナルな表紙イラストと共に人気を博している。
 一般にブルーライト文芸に当たる作品は、多くが2016年以降だと思って頂いて問題ない。では、ブルーライト文芸にはどのような特徴があるのだろうか。
 まず、主人公の性格について。これはあくまで主観だが、ブルーライト文芸の主人公には村上春樹作品に出てくる主人公をマイルドにアレンジしたようなキャラが多い。大人しくて落ち着いているが、何らかの原因によって自意識を拗らせており、往々にして斜に構えた性格を持つ。
 『ウェブ小説30年史』によれば、後期のケータイ小説市場では、少女マンガ的な「俺様キャラ」が流行していたが、2019年にはその人気は後退し、むしろ「クールまたは無気力系でガツガツしてなさそうに見えるんだけれどもヒロインに対しては一途で優しいというギャップがある男子に溺愛される、という感じが人気です」と述べられている[12]。
 ケータイ小説を源流に持つライト文芸がこの影響を受けるのは当然だろう。新海作品を受容する層とブルーライト文芸を好む層が一致するのは、キャラクター性から鑑みれば何も不思議ではない。
 また、ストーリー構成でもある程度の共通項を探し出せるだろう。最近のブルーライト文芸は、高校生が主役のことが多く、ほとんどは恋愛メインのストーリー仕立てになっている。舞台は都会より田舎がよく使われ、季節は夏が多い。物語終盤、ヒロインが何らかの原因で消失・死亡することが示唆される。セカイ系の影響もあるのかもしれない。
 「田舎」「夏」「ヒロインの消失」といったフラグメントは、実はサナトリウム文学の構成要素と一致している。ブルーライト文芸と難病・闘病ものの相性が良いのは、そもそもブルーライト文芸が形を変えた新時代のサナトリウム文学だから、と言えるのではないか。日本の夏の表象として言われる白ワンピースや麦わら帽子は堀辰雄の『風立ちぬ』や、それを基にした実写映画、またはジブリによるアニメ映画の力が大きいとする見方もある[13]ので、サナトリウム文学とエモ及び原風景は強く結びついている。「死」や「難病」の語がエモに内包された原因もこのあたりに関わっているのだろう。いずれにせよ、ライト文芸の土壌において2016年以降は帰納から演繹にスイッチし、ブルーライト文芸が台頭しはじめたと言えるのではないか。ブルーライト文芸は特にTikTokと相性が良いため、今後も中高生を中心に大きく注目されていくだろう。

エモ映画の興隆

 『愛がなんだ』、『ちょっと思い出しただけ』、『花束みたいな恋をした』、『明け方の若者たち』、『真夜中乙女戦争』など、最近はエモさを前面に押し出した映画が人気になっている印象がある。ブルーライト文芸ほどサンプル数がないのでそこまで類型化はできないが、登場人物は大学生以上が多く、特に「ネガティブ」方面のエモに注力している。従って、高校生の瑞々しいエモさとは対照的に、夜・タバコ・酒・浮気などの退廃的要素が付随しやすい。『純猥談』の雰囲気はまさにこれらの映画の文脈上にある。

『愛がなんだ』
『花束みたいな恋をした』


 また、これらの映画と「右肩上がり手書き文字」にも何らかの関係性があるのではないだろうか。
 「映画ポスターの「右肩上がり手書き文字」はなぜ流行っている? 作品の“エモさ”を引き出す理由を分析してみた」の記事によれば、以下の特徴を持つ映画は右肩上がり手書き文字を使用する割合が高いという。

 ・メジャー公開ではない、比較的小規模な映画
 ・どちらかと言えば「淡い印象」を持つドラマ映画

https://news.allabout.co.jp/articles/o/43022/

 手書きがエモいのは当然として、右上がりなのは書道的な美しさが下地にあるのだろうか。執筆者のヒナタカは、映画では今泉力哉監督作の影響が大きいと指摘する。ただ、この手法は映画に留まらずマンガや小説にも波及しているため、源流としてはデザイナーの川谷康久を無視できない。『アオハライド』をはじめとした様々な青春作品・人気作品のブックカバーを手がけた川谷が確立したムーブメントとの見方が自然ではないだろうか。

 いずれにせよ、こうしたエモ映画は今後も増えるはずだ。そして、大学生にとってリアリティのある「エモ」像は、エモ映画が形作っていることになるだろう。


[1]「エモい」と古語の関係については前から注目されており、2016年に「エモい」が新語大賞で2位を獲得した際、選考委員の飯間は「エモい」は「あはれ」と用法が同じだと指摘している。そのコンセプトを貫いた『エモい古語辞典』なる書籍も存在する。『エモい古語辞典』のまえがきには"「好きなキャラをエモく表現するために感受性を爆上げしたいから、爆エモな語彙を知りたい」"という中学生の要望に応えた結果出来たのがこの辞典であると説明されており、細かな言語化を省いて直感に訴えかける「エモ」から離れて古語に回帰する様は非常に倒錯的だ。

[2] 津上英輔『危険な美学』インターナショナル出版、2019年、pp.125-139

[3] 森岡正博『感じない男』ちくま新書、2005年、pp.76-77

[4] 高橋伸哉『写真からドラマを生み出すにはどう撮るのか? 写真家の視線』インプレス、2020年、p.24

[5] 津上、前掲書、pp.139-146
[6] 北出・サカウヱ・わく・ヒグチ「セカイ系・日常系・感傷マゾ──フィクションと私たちとの関係、20年間のグラデーションを探る」『ferne』私家版、2021年

[7] 荒川和久『超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃』PHP新書、2017年、pp.196-199

[8] 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社、2001年

[9] 「「新海誠っぽいエフェクトのかかった、青春っぽいイラストが表紙の文芸作品」このジャンル名って?」2021年5月24日作成。https://togetter.com/li/1719489
[10] 石井 ぜんじ・ 太田 祥暉 ・松浦 恵介『ライトノベルの新潮流』standards、2021年、p.274

[11] 飯田一史『ウェブ小説30年史』、星海社新書、2022年、p.324

[12] 同書、pp.349-350
[13] 安原まひろ「アニメの影を踏む 第五回 あらかじめ失われた夏を求めて──夏、白いワンピース。麦わら帽子、バス停─」『江古田文学109号』江古田文学会、2022年



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