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愛するのは長所だけか

自分の愛情のコップを満タンにして、
コップからこぼれ落ちた愛情を
相手に差し出したらいい。
シャンパンタワーは1番上のグラスにシャンパンが溢れなければ、
下のグラスにシャンパンが注がれない。

まずは自分のグラスを満たさないと相手を満たせない。

こういう例え話を何度か聞いたことがある。

私たちは小さい頃から「相手の立場に立って考えなさい」と言われてきた。

苦しんでいる人や、弱っている人の立場に立って考える。
喧嘩した時、相手の立場や気持ちを想像してみる。

それは実際大切なことだろう。まさに正論だと思う。

けれど、少し立ち止まって考えたい。
その土台になる自分を私たちは置き去りにしていないかどうかについてだ。

相手の立場を考える心に、
自分が自分の立場や感情を受け入れて認める安定感がなければ、
軸がないためにふらふらと相手に振り回されるばかりになってしまう。

親が子供を愛する時、子供の長所だけでなく欠点も含めて
いくたびも子供に「こいつ!」と思ったとしても、
子供をまるごと「大切にしようとする」だろう。
完璧にできなくても精一杯に。試行錯誤を繰り返して。

子供が成功したら一緒によろこび、失敗したらなぐさめ、いたわり励ますだろう。

だから、同じように自分のことも欠点も含めて丸ごと「大切にする」。
そうして初めて、自分が満たされ、落ち着き
相手と向き合う土台が整う。

自己嫌悪している時、自分で自分を批判していないか。

批判は、叱咤激励にし変換たらいいんじゃないかなんて思う。
叱咤激励は大切な相手にしかしないから。

嫌いだから批判しているわけじゃないよ、と。
大切だから叱咤激励しているんだよ、と。

これは、多分ごまかしで、
自己嫌悪している時は自分のことは嫌いになっているから責めている。
消えてしまいたいとすら思う。

けれど
相手が自分の子供だったら、弱っている子供になんと声かけするか想像してみる。

相手の事情を、時代背景や家族構成まで考慮していっぱい想像して
こういう言葉をかけてあげたらいいかな、こうしてあげたらいいかな。
これは言っちゃいけないな。

いつも相手の事情を汲んで、汲んだ相手から傷つけられても
そんな現実を受け入れて、ボロボロで自分で生きる人には
時々は、自分の事情も慮ってあげてほしいと願う。あなたも大切な人なんですよと。

日本を好きだと言いたい。

あんな過去の失敗があるのに。こんなに悪いところがあるのに。戦争で負けたのに。
他国に酷いことしてきたのに!

けれど、いいところしかないから好きになるんじゃないと私は思う。
いいところも悪いところも含めて日本を大切に思う。

批判は叱咤激励だと思えばいい。

というか、叱咤激励を含まない批判は悪口でありいじめだと思う。

大切にするってどういうことなのか、死ぬまでずっと試行錯誤だと思う。
そして大切にするって、ふわふわやわらかいだけじゃないと思う。

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