【小説】にじむ
他の原稿の尻叩きに放流します
人生の光景を、真理は一字一句覚えている。実家のささくれだったフローリング、女子校時代のスキップながらに弾む木琴。見合いの日の曇天色、流されるがままに結婚した濁流。辿り着いた先には何もなかった。
記憶はいつだって色鮮やかに、褪せずに、脳裏によみがえる。なんて恨みがましいのだろうと真理は苦笑いを零す。忘れることなどできないのだ。苦しみも悲しみも、すべて自分のせいにされて、宝物を手に入れたことも含めて。
スノードームの中はいつだって嵐が吹き荒れている。
みぃちゃんが泣いている。全力で拒絶する様子は、まるで世界が終わるかのようだ。喉を引き攣らせながら、真理の孫は絶えず大粒の涙を流す。口から漏れ出た音は言葉になっていない。そもそもまだ言葉を知らない。真理は小さい頭を優しく撫でる。頭蓋骨の形が丸くて綺麗だった。
「ごめんねえ、ばあばが気づかなかったから」
どうして私が謝っているのだろうと真理は独りごちた。みいちゃんがおねしょをしたのに。幼い子が粗相をするなど当然なのに。二歳にはまだ大問題かも知れないが。真理は慰めるのに必死だ。
みぃちゃんが泣き疲れ果て眠ってしまうのに、時間はかからなかった。
どうしてこどもは泣くのだろう。美咲はこんなにも泣いていたっけ。真理はみぃちゃんにブランケットをかけながら、ふと考えた。美咲は真理の娘だ。記憶にある美咲は手のかからないこどもだった。真理の中にあるこどもらしさという概念を壊したのが美咲だった。
転んだとしても泣かなかった。血が出ていることにも触れずに、すぐに駆け出してしまう。こちらが心配するほどに、気丈だった。
真理は高校のときに学んだ言葉をうっすらと思い出した。高校卒業と同時に見合いが決まっていた真理は、いつだって授業を話半分に聞いていた。うっとりと見合い相手に思い耽るための時間だった。すぐに幻想などぶち壊されたが。
母である真理から見ても、美咲は物語の中のヒロインみたいだった。美咲の整った顔立ちと、すらっとした背筋が、気丈さをさらに助長させた。
よく言われたものだ、ほんとうに、似ていないですねえ。明らかに真理を馬鹿にした発言だった。しかし、真理は喜んでいた。親戚たちは更に真理を馬鹿にしたものだった。滑稽で愚か。似ていないのは当然だったし、真理は性格が優しいとは決して言えない親戚たちから、美咲を守るのに必死だった。それに、真理も親戚たちも知っていた。
真理と美咲は血が繋がっていない。美咲は養女だった。
子供がどうしてもできなかった。気色の悪い行為は義務で、夜になるのが真理はほんとうに怖かった。身体が動かなくても股を開かなければ、夫は不機嫌になった。若かった真理には信じられなかった。でも、そうするしかなかった。昼には、こどもに躍起になった義理の両親から責められた。
「何のために結婚させたと思っているの?」
真理の夫は知らんぷりで、そのうち外に女を作った。帰るのも遅くなって、真理は義理の両親が買ってくれた広い一軒家でずっと一人で過ごした。真理は内心安心したのを覚えている。
両親でさえ、真理を守ってくれなかった。メンツがどうの、お前にかかっているのだと意味のわからないことを言って、真理をなじった。次男だからまだ良かったと義理の両親と盛り上がっていた。大した検査も行いもせず、全て真理のせいにされた。
全て自分のせいにされて、真理は美咲を手に入れたのだ。
美咲の実母は夫の遠縁だった。女は生まれて半年の娘を放置して、たまたま運良くどこかへ行ってしまったらしい。これ幸いと義理の両親が斡旋してくれた。
「女の子だけど、いないよりマシだろ」
骨が入っていないのではないかと思えるほどの、柔らかな肉。こちらをじっと見つめる瞳にすぐさま真理は夢中になった。義理の両親が美咲と呼んでいたから、真理も習ってそう呼んだ。胸に抱えた命に、この子は私が守るのだと決心をした。
自慢の娘だった。月日が経つほど、美咲は残酷なほどに綺麗に育っていった。義実家や夫が、嫁いできた妻を家政婦だと勘違いしていても、誇りだった。
美咲は成長するにつれ、自分の母が虐げられているのを知った。真理が親戚中からこき使われている最中、美咲には上座で温かいお茶が出されていた。真理の夫が自慢げに「母さんと似てないなあ」と自分に言うのを、美咲は心地よく思っていなかった。あんたにも似ていない。賢明な美咲は口にはしなかった。自然と美咲は腰を上げて、母親の後ろについて行った。
「どうしたの」
不思議そうに真理が見上げてくる。すっきりとした大人びた顔は誰でもどきっとした。美咲はつぶやいた。
「お母さんと一緒にいる」
そして、美咲は真理の真似をするように、後ろを着いて回った。親戚たちが美咲はそんなことをしなくていいと、何度言っても首を横に振る。真理が見た、唯一のこどもらしさだった。美咲のぎこちない甘えは真理をいつだって救っていた。親戚たちから真理を美咲が守っていたのだ。
「今の時代、女でも学ばないとね」
美咲には選択肢があった。美咲の人生は明るく照らされていた。クリスマスの大げさなイルミネーションのように眩かった。素晴らしいことだ。もちろん美しく育った美咲にも「いい人はいないのか」などと聞いてくる人間はいた。しかし、美咲の選ぶ男に間違いはないだろうと皆思っていた。
女子大に通い、卒業後は大手の銀行に勤めた。順風満帆で、美咲は文字通りどこにでも行けそうだった。帆を上げれば、風が勝手に吹くのだ。美咲の導くままに、人生は開いていく。まさに高価で完璧なスノードームでも見ているかのようだった。誰しもがうっとりと見つめる先に、美咲は微笑んでいた。
しかし、美咲は簡単に壊した。美咲には何だってできるからだ。
話があるから実家に帰ると言うから、真理は美咲がついに結婚でもするのかと考えた。真理の夫もそう考えたようで、どんな男がきても追い返すと豪語していた。
現実は一切予想できなかったものだった。
妊娠したと美咲は簡潔に告げた。相手はと私たちが聞く前に、結婚はしないとすぐに続けたのだ。娘はここでも気丈だった。どれだけ夫が聞き出そうとしても、父親は誰だか教えてもらえなかった。美咲は言った。
「私が母親になるの、それだけ」
夫はけたたましく娘を怒鳴った。最終的に、美咲は追い出されるようにして帰っていった。真理は何もできなかった。真理の身体は凍りついたように固まっていた。真理の夫は何度も繰り返した。
「お前の育て方が悪かったんだ」
何ヶ月かした後、適当な理由をつけ、真理は美咲の住むマンションへ向かった。美咲はいつものようにオートロックを解除してくれた。違ったのは、美咲の身体がげっそりとしていたこと。真理は驚いた。美咲曰く、気持ちが悪くて食べられないのだと。つわりだった。真理は居ても立っても居られなくなり、それから夫に気づかれないように、必死になって娘の世話をした。適当に、真理はお花のレッスンがあるの、なんて嘯いた。
夫は簡単に見透かしていた。しかし、何も口出ししなかった。そうかとだけ頷いた。だから、真理は美咲に会いに行った帰りには、フラワーアレンジメントを買うのが必然となった。夫は珍しく綺麗だ、などとのたまった。とんだ三文芝居。出来レースだ。美咲はギリギリまで銀行で働き、産休に入った。
出産は真理だけが見守った。夫は何も言わなかったが、緊張していた。真理にとっても初めての体験だった。思い出すと、手のひらがいまだにぬるつく。毛穴が自然と開く。
お産はまさに命がけだった。眼球が飛び出るのではないかと思うほど目を見開き、美咲は痛みのあまりに泣き叫んでいた。まるで興奮状態の獣だった。真理は圧倒されて、眩暈がした。でも見届かなければと強く思った。
何時間続いたのだろう。気がつけば、早朝になっていた。フラワーアレンジメントに行った妻が帰ってこないことに、夫は不思議に思わないのだろうか。
産声が上がったとき、やっと終わったのだと肩の力が抜けた。自然と息が荒くなっていた。
「可愛い女の子ですよ」
助産師が猫撫で声を出す。猿みたいな赤ちゃんを見た美咲は、目尻を下げた。可愛い、と口元だけで呟く。美咲が瞬きをした瞬間に、水粒が落ちた。その瞬間だった。堰を切ったかのように、自分の中が渦巻いていくのを真理は感じた。気づいてしまったのだ。
がんばったねと美咲の額に浮かぶ汗を拭いながら、真理は冷静に事態を把握しようとしていた。自分の置かれた状況を。自分の汚さを。情けなかった。何も嬉しいと思えなかった。孫が産まれたことも、娘が無事でいることも、どうでもよかった。美術館で見た聖母絵画みたいに嘘っぱちに感じ、すべてが気持ち悪かったのだ。拒絶反応が出ていた。それからだった。真理の中に静かにひずみが存在を示していた。
何ひとつ血が繋がらない孫は、世界の隅々まで届くようにと、自分の存在を知らしめるように泣いていた。
真理はフラワーアレンジメントをやめ、今度は素直に美咲のこどもの面倒を見た。隠す必要がなくなったからだ。真理の夫はどうしようもなく赤子に会いたかったのか、真理に着いてきた。美咲は何も文句を言わずに会ってくれた。
夫はすぐさま赤子の頬の丸みに魂を取られた。この部屋のリビングいっぱいに広がる玩具は、全て夫が買ったものだ。
「可愛いでしょう?」
みぃちゃんを初めて抱っこした夫は、涙ながらに言った。
「美咲にそっくりだ」
みぃちゃんは実の名前が美衣子である。美咲から受け継いだ文字通り、みぃちゃんも赤子ながらに美しかった。目がぱっちりと輝いて、睫毛を揺らすだけで、周りの大人は虜になった。
美咲は親戚の支援もあり、すぐに復職をした。スノードームは壊れてなんかいなかった。たかが、ひっくり返されただけだ。真理には机から落下したかのように思えたが、落ちた先にはクッションがあった。いつでも貴方を守る、ライフガード。真理にはなかったものだ。
棚に戻されたスノードームは、今でも祝福の紙吹雪がゆっくりと舞っている。
スノードームには、去年からみぃちゃんも追加された。みぃちゃんを抱きかかえた美咲を取り囲む人たちの中に、真理はいなかった。カメラを遠くから抱えて、その様子を残している最中だ。皆が笑顔で、真理は嬉しかった。ちくりとひずみが軋む。
ひずみは真理の身体から栄養でも吸い取っているのか、大きくなっていった。真理の異常に気づく人間はいなかった。美咲でさえ気づかなかった。それがずっと見てきた母の姿だったからだ。
真理はいつだって脇役だった。もはや脇役どころではないかもしれない。美咲が主役ならば、真理はダンボールでできたハリボテの木だ。引き立て役だった。舞台から降りたら、焼かれてしまう。簡単にマッチの火で燃やされてしまう。行き先は、どこか隅にある焼却炉だ。
燃やされてしまうのであれば、真理は自分でやりたかった。自分が決めたい。いつの日か、真理の中で気持ちが固まっていた。
眠っているみぃちゃんの首に指で触れた。どくんどくんと脈を打っている。生きているのだ。せき止めれば、ぷくりと膨らむ血液。簡単に手が回ってしまう華奢な首。親指にそっと力を込める。
どうして私はこんなにも汚いのだろうと真理は頭のどこかで考えた。本当に私は母だったのだろうか。何をもって、母と定義するのか。真理には何も分からなかった。だって、誰も教えてくれなかったから。
炎が大きく揺れている。導かれるように、惹かれていた。真理は火傷するのも構わずに飛び込んでいく。ずっとしたくてしたくて、たまらなかったのだ。
真に熱い炎は、赤色ではないらしい。
みぃちゃんの柔らかな首をゆっくり探る。ふっくらとした唇が開いて、鼻呼吸がおぼつかなくなった姿に、真理は口角を上げた。その後は自然と身体が動いていた。真理は高校以来ぶりに無邪気に微笑んだ。そして眉根を下げて、涙を流した。
たった一瞬で片付くのだと、真理はやっと思い知ったのだ。割れたスノードームから、何十年来と溜まった、得体の知れない液体が溢れていく。棚にも飾られずに、仕舞い込まれたスノードーム。飛び散った硝子の破片がきらきらと眩しい。
美咲が帰ってきたのは、夕飯時だった。
「あーあ、疲れた」
ジャケットを脱いで、腕をぐるぐるとストレッチする姿は様になっている。美咲はいつだって綺麗だ。自慢の娘だ。自慢の娘だった。
「みぃちゃん、寝ているの」
びくりと真理の肩が揺れた。真理は平然を装う。
「大泣きして疲れちゃったみたい」
みぃちゃんはベビーベッドで眠っている。口元までブランケットが深くかけてあって、簡単には異変には気づかないだろう。
私があなたを産みたかった。美咲には高校に入る前に事実を告げた。
「知ってるよ。でも、私のお母さんはお母さんだけじゃん」
美咲は真理にそう言った。真理はとても嬉しかった。いつだって美咲は真理に優しい。そして、その優しさは真綿のように真理を苦しめていた。
真理は美咲を恨んでいるのかも知れなかった。同時に強く愛していた。どうしようもなく憎かった。相反する感情は、真理にはどうすることもできなかった。どうしてと。真理はただ思う。どうして、自分が願うものは手に入らないのだと。別に特別を願ってなどいなかった。ただ慎ましやかでも、真理には許されなかった。反面、美咲は簡単に手に入れた。
憎かった。女として、親として、人間として、美咲が憎かった。いつだって、美咲は間違えることがない。
「ご飯食べようよ」
真理は今日も美咲のために、カレーを作っていた。美咲のこどもの頃からの好物だった。何かお祝いがあれば、美咲はカレーをねだった。初潮の時にも赤飯の上にカレーをのせたことを思い出して、真理は嫌気がさす。自分に染みついた風習、通過儀礼。過去の行為が気持ち悪かった。
美咲が赤ちゃんを産めるようになったんだよ。とても素晴らしいことなんだよ。思い返して、吐きそうになる。美咲にばれないように、あくびをして身体に溜まったガスを吐き出す。
カレーはきっと日持ちするだろう。
「今日はいいや、父さんが待っている」
嘘だ。夫が待っているのは食事の準備だけだ。みぃちゃんの首に薄く残った青に気づかれる前に、美咲が気づく前に、去らなければならない。これからもっと濃く浮き出てくるかも知れない。暴かれる前に。
青がにじむ。
「そう」
「今度は父さんとくるよ」
平然と嘘をつく真理を、美咲は絶対の如く信じていた。なんて愚かなのだろう、真理は初めて美咲に対し思った。美咲は言う。お父さん来ると、みぃちゃんみぃちゃんうるさいんだもん。真理の前ではいつだって甘えただった。真理は苦笑いをひとつして、それだけ可愛いってことよなんて適当に答えた。
いつでも真理はひとり置いてけぼり。いつまで苦しむつもりだろうか。
この傷とずっと生きていくのだ。傷は癒えることはないだろう。癒すつもりもない、一生苦しむのだ。簡単に忘れなどできない。二十歳の真理が叫ぶ。許しはしない。真理は一生苦しむことで、生き延びている。
汚れが跳ねたエプロンを丸めて、洗濯機に向かって投げる。勢いが良くて、洗濯機の奥に落ちてしまった。真理はかすかに苛立ったが、まあいいかと諦めた。
「また、ねえ」
ソファーから聞こえる、間伸びした美咲の声。きっと真理だけに見せている姿なのだろう。真理は知っていたが、今更どうでもよかった。美咲に振り返らずに、急いで扉を閉めた。
「またね」
次などこない。足を進めようとして、段差につまずく。足がもつれても関係なかった。早くここから去らなければならない。真理は急ぐ。色が濃くなる前に立ち去らなければならない。五階建てのマンションをわざわざ階段で降りた。人とすれ違うにも嫌だった。下だけを向いて、道をズンズンと進んでいく。街灯がまばらで、誰も真理に気を止めなかった。靴が脱げてもお構いなしに歩いた。
人がいないのを確認して、真理はやっと自分のためだけに泣いた。わんわん、声を上げてこどもみたいに泣いた。ずっと必死に耐えていた。もう耐えなくていい。
真理は顔中から液体を垂れ流しながらも、構わずに足を進める。どこに向かっているかなど真理自身分かっていなかった。足が止まる気配はない。
どこに帰るのだろう。帰る場所など真理にあるのだろうか。しかし、真理にはもう必要なかった。曲がった背中がゆっくりと消えていく。冷たい泥が真理を襲う。肺を早く水浸しにしてやりたかった。
痣だ。これが私の受けてきた痣だ、と真理は躍起になっていた。着ていた服がだんだんと重くなっていく。青でにじんでいるのだ。
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