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ブラックマンバ〜コービー・ブライアント〜(第二章)

おはようございます‼︎Akkyuです‼︎
今日はコービーの第二章です。
ちなみにコービーの名前、英語では『Kobe Bryant』となります。この『KOBE』。実は神戸牛のKobeから来ているのです‼︎ご両親がよく行っていた、アメリカの鉄板焼き屋『Kobe steak house』(神戸ステーキハウス)で神戸の名前の由来が気に入り、名前を取ったとらしいですね^_^
まぁ、有名な話ですね😅
そんなコービーの高校時代の物語…

第二章: 高校時代(ローワー・メリオン高校)


1991年、コービー・ブライアントとその家族は再び大きな変化を迎えました。
長いイタリアでの生活を終え、彼らはアメリカのペンシルベニア州アードモアに戻ってきたのです。
異国の地での豊かな経験を胸に、コービーは新たなチャレンジに胸を躍らせていました。
アードモアにあるローワー・メリオン高校に入学したコービーは、すぐにバスケットボールチームに参加しました。
彼の登場はすぐに学校全体の話題となりました。
長身でしなやかな体、驚異的なバスケットボール技術、そして何よりも強烈な競争心。
コービーは瞬く間にチームの中心選手としての地位を確立しました。

驚異的な成績


コービーの高校時代のバスケットボールキャリアは、まさに伝説的なものでした。
彼はローワー・メリオン高校を4年間でチームを州チャンピオンに導き、個人としても数々の栄誉を手にしました。
特にシニアイヤーには、彼の活躍によりチームは31勝3敗の成績を収め、州タイトルを獲得しました。
この年、コービーは1試合平均30.8ポイント、12リバウンド、6.5アシストという驚異的な成績を残しました。
彼のプレーは観客を魅了し、スカウトたちの注目を集めました。
彼の試合を見るために、体育館には多くの人々が押し寄せ、彼の才能を目の当たりにしました。

大学進学の選択肢


コービーの素晴らしいパフォーマンスにより、多くの名門大学からスカウトが殺到しました。
デューク大学、ノースカロライナ大学、ビラノバ大学など、彼を獲得しようと競い合いました。
しかし、コービーは大学進学の道を選ばず、直接プロバスケットボールの世界へ飛び込むことを決意しました。
彼の決断は家族や周囲の人々にとっても大きな驚きでしたが、彼の確固たる信念と夢に対する情熱がその背後にありました。
彼は自らの力でプロの舞台で成功することを確信していたのです。

NBAドラフトへ


1996年、コービーはついにNBAドラフトにエントリーしました。
18歳という若さで、大学を経ずにプロの世界へ挑むという大胆な選択をした彼は、多くの期待と不安を一身に背負っていました。
しかし、その瞳には確かな自信が輝いていました。
ローワー・メリオン高校での4年間は、コービーにとって多くのことを学び、成長するための重要な期間でした。
彼の才能は磨かれ、競争心はさらに強くなり、プロの舞台での成功への準備が整いました。
こうして、高校での輝かしいキャリアを経て、コービー・ブライアントは次なる大きなステージへと歩みを進めました。
未来への期待を胸に、彼の物語の新たな章が始まろうとしていました。

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