「よろしいでしょうか?」の罠
もうだいぶ前だけどレジ袋が有料化された。
私は日常的にコンビニを使うので、袋がいるかどうかをよく聞かれる。
店員さんによって聞き方は少しずつ違う。
「袋は要りますか」「袋はつけますか」「袋はご利用でしょうか」などなど。
そんな中で、「袋はよろしいでしょうか」と聞かれることがある。
「よろしいでしょうか」というのは丁寧な言葉だ。
あってるあってないとかじゃなくて、響きからして丁寧であることにはおそらく9割以上の人が同意するだろう。
しかし、この言葉には罠がある。
元々、「よろしいでしょうか」は「いいでしょうか」を丁寧にした言葉だ。
「よろしいでしょうか」を単品で使用してしまうと、「〇〇で」が抜けているので、質問された側が文脈を加味して内容を推測する必要がある。
だが、コンビニで袋がよろしいか聞かれるのは、大体商品のバーコードをスキャンしているタイミングなので、店員さんは袋を取り出していない。
じゃあ、そのときの「よろしいでしょうか」は袋が無しでいいか聞かれているかというとそうではない。
袋を利用するかどうかというのはそんなに大きな選択ではない。
仮に袋を取り出すとしても、0.5秒もあれば実現できる。
だから、この「よろしいでしょうか」はどちらにも転びうる限りなくフラットな質問なのだ。
私はこの「袋はよろしいでしょうか」という質問に「はい」と言いながら、手を振るという回答をした。
すると、店員さんは袋を渡して来た。
私は「袋いらないのにな」と思いながらも、その認識齟齬を否定するほどの違いでもない。
そして、同じコンビニの同じ店員さんに対して、同じ回答を何度かしてしまい、毎回袋を用意されてしまった。
同じ回答をしている人はいるが誰も否定していないのか、この回答をしているのが私だけなのかはわからない。
ただ、私は「よろしいでしょうか」という柔かく優しい言葉が、日常にほのかな曖昧さをもたらすことに気づき、代わりに「いらないです」という回答をすることを覚えた。
たぶん、優しさと曖昧さは紙一重なんだと思う。
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