人文書を読む(10)小林敏明『廣松渉 近代の超克』(講談社)

 廣松渉というと「難しい」というイメージが強い。文体から思想の内容に至るまで、簡単に読解できないイメージがある。また、廣松が「マルクス主義」を研究していたことから、ソ連などを中心とする「東側諸国」の国々の資本主義化によって、その思想はある意味もう「時代遅れ」の感じすら持たれているかもしれない。しかし、果たして本当にそう言ってしまってよいのだろうか。

 本書は、そんな廣松の思想について、200ページ足らずで論じたものである。廣松自身の思想についてだけではなく、特に近現代日本の思想史上での廣松の位置づけについても検討がなされているのが特徴である。

 内容について具体的にみてみると、序章で、日本現代史の中で(著者とのかかわりなどにも触れつつ)廣松がどのような立ち位置にいるかを簡単に示したのち、第一章では(予備的な考察という意味も含めてか)「近代」という問題についての分析がなされる。

 これに続く第二章では、廣松の主要な著作の内容を手掛かりに、廣松とマルクス主義の関係について論じられる。ここまででも十分に「お腹いっぱい」な感じがあるが、最終章では「近代の超克」に対する廣松の考えが検討され、近現代日本思想史における廣松の位置づけや、廣松が主に近代日本の思想をどのようにとらえていたかが明らかにされる。

 そんなわけで、よくこの短い本の中で多くの問題を論じていると思わざるを得ず、まず著者のその手際の良さに感心させられる。そして、廣松の書く文章と対照的に、著者の書く文章は読みやすく、また論理的にも追っていきやすい平易なものとなっている。

 本書においては、他の近現代日本の思想家と廣松の立場を比較している箇所が何か所かある。その中でも、特に比較対象として重視されているのが、西田幾多郎と丸山真男である。近代日本と現代日本を代表する思想家と廣松を対比したときに見えてくる論点は興味深い。

 また、第三章で「近代の超克」に対する廣松の考察を取り上げる際には、当然「京都学派」に対する廣松の一筋縄ではいかない評価が紹介されているが、この点は廣松自身の思想だけではなく「京都学派」の思想史的立ち位置を再考する際にも意義のあるものとなっている感じを受ける。

 きっと、本書に描かれたものとは違った廣松像を描くことも可能なのだろう。そういった意味で、廣松は「分析しがいのある」思想家だとも言えそうである。しかし、本書はシリーズ「再発見 日本の哲学」の一冊らしく、日本思想史の中での廣松の位置づけ方についてのひとつの見取り図を示している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?