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あたらよの夜

大分県のとある山あいに、「あたらよ」はある。
家なのだが家ではなく、
シェアリングスペースでも民宿でも、無論ホテルでもない。
あたらよを定義する一般名詞はまだなく、代わりに訪ねてくるものをそのまま受け入れ、包み込む何かがある。

家族で所有する家にも、金銭と引き換えに時間貸しされる宿泊施設にも、家族「でない」者やお金を払って「いない」者を排除する原理が働いている。この世界の、すでに定義されたありとあらゆる空間は、意味づけや条件づけがされており、意味の文脈に合わないものや条件に満たないものは排除される。

あたらよは、そんな常識の埒外にある。

2022年10月のある日、すでにとっぷりと日が暮れた真っ暗な田舎道をタクシーの運転手とたわいもない会話をしながら進んだ先で、私は初めてあたらよに辿り着いた。何より先に、ぼんやりと漏れ出る暖色の明かりの奥から、誰かが叫ぶ地鳴りのようなmisiaの「Everything」が耳に届いた。運転手さんは一言「下手だな」とつぶやいたが、あれは歌ではなかった。歌が下手とか上手いの域から外れた質量と質感をもつ音であり叫び。なんにせよ、地鳴りの叫びに当たった子どもがギャン泣きしている空間に私は辿り着いた。そこが、京都から半日かけて、飛行機とバスと電車を乗り継いだ旅の目的地「あたらよ」だった。

卓の上では、まだ十分に美しさをとどめた繊細な料理が盆にところ狭しとのせられていて、私がおずおずと座るなり誰かが缶ビールと取り皿を差し出してくれた。場はすでに十分あたたまっていて、自分が人見知りであることを忘れられるくらいには知った顔もいた。彼らがお酒の入ったたっぷりとした笑顔で話しかけてくれる毎秒ごとに、心と旅の疲れがするすると解けていった。

部屋たちが間仕切りなくいくつも連なったような大広間の一角にカラオケセットが用意されていて、皆がかわるがわるマイクを取る。ひとつながりの空間なのに大音量が届かないくらい奥の縁側のハンモックでは、誰かがすでに寝仏になっている。

手前側の縁側は完全に外に開いている。掃き出し窓の縁に座る人と外テーブルを挟んで外に座る人たちのグループ、カラオケの横のコタツでひしめき合うグループ、台所で立ち仕事をするひとグループ、微妙な場所に置かれたソファに一人、二人。どんな気持ちも、どんな会話も、どんな人も、全て飲み込んでひとつにしてしまう空間がそこにはあった。ひときわ小さなシルエットの可愛らしいおばあちゃんや、神楽の出立ちがキマッているおじいちゃん。東京からはるばるやってきた人たちも、地元の人たちもなんの違和感もなく溶け込んでいた。

髭と長髪の2人の男たちの瞳孔は開ききり、ゆるんだ口元には本音だけがあふれていた。いつしか2人の間は「地獄谷」と呼ばれ始め、掬っても掬っても吸い込まれていく大地の割れ目がそこにあった。怖い物みたさで覗き込むまでもなく。

大騒ぎをしているはずなのに、不思議とうるさくない。
誰かひとりが大声を出しているわけではなく、変なふうに興奮している人も、悪酔いしている人もいない。
誰も誰にも何も強要していない。誰もさみしがっていない。
よくある場の序列や妙な緊張感がまったくない。
場を満たすエネルギーの純度が高い、地獄谷があってもなお心底安心できる空間だった。

夜が明けてぐるりと歩いてみると、遠く阿蘇の山々まで見晴るかす高台の集落にあたらよは建っていた。

「そうか、広いんだ。」

あんなにもいい時間だったのはきっと、あたらよの空間と家主の心が屈託なく手を広げて宇宙と繋がっているからだ。私は、私たちは、つながり溶け合う人びとの心と見渡す限りの自然に存在を丸ごと抱きしめられた。

いつだって、どうしたって、人の心は、日常や常識や世間からはみ出してしまう。埒外に彷徨い出る心を掬い取ってくれる場所はきっと、「あたらよ」みたいな一般名詞の呼び名もコンセプトもない楽園。

2022年10月11日の夕焼け

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