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「問題」でもなく「生き方」でもなく
最近、不登校やひきこもりを「生き方」と表現する支援者が増えてきました。確かに、不登校やひきこもりを「問題」としか認識できないのは誤解ですが、だからといって「生き方」と言われても、何となく自分の実感と合いません。
なぜなら「生き方」ということばには、不登校やひきこもりになることを、自らの意思で選んだようなニュアンスがあるからです。たぶんそういう不登校/ひきこもり状態の人は、ひとりもいないでしょう。もし選んだとすれば、それは意思によるものではなく、無意識からの指令によるものだと表現するほうが適切です。
これまでにも何回か出てきましたように、私自身は不登校を運命的なものだったと感じています。なぜなら、不登校が終わったあとの高校生活で、私が体験した思い出深い出会いや活動は、その前の不登校がなければありえないものばかりだったからです。つまり私の不登校は、さまざまな体験ができる時期を迎えるための準備期間、言い換えれば“天の配剤”だったわけです。
しかし、こうした“運命論”だけでは、人生の出来事は表現しきれません。そこで私は、不登校やひきこもりを「生き方」ではなく「生きざま」と表現しています。自らの意思によらず、いじめなどで否応なしに選ばざるをえなかった道、あるいは、気がついたときには選んでしまっていた道が、不登校でありひきこもりである、と私は考えるのです。そして、その道をひたすら歩いている、つまり不登校やひきこもりを生きている、それが本人たちにとって生きているということであり、そのときにはわからないがいずれわかる何かに向かって、ひたすら歩いている。
─「生きざま」とは、そういう意味です。
初出:メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』第25号(2003年4月9日)
収録:丸山康彦『不登校・ひきこもりが終わるとき』(ライフサポート社;2014年4月5日)
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