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ゆく夏を惜しむ心(前編)

※2002年10月に創刊し、掲載文が200本を超えたメールマガジ『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のバックナンバーから厳選した100本(予定)の掲載文を、毎週1本ずつ転載しています(字句や一文など小幅な修正をしている場合があります)。

※前回と今回は、筆者である私が15年前の8~9月にかけて3回書いた「当時の気持ち・今の思い」と銘打った短期連載の2回目(中)と3回目(下)を転載します。15年前の「今」と、現在の「今」に違いがある箇所には注記を付けています。

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精神的ゆとりを失った本人たち

 前回私は「不登校/ひきこもり状態になると、遊び(生活を楽しむ精神的ゆとり)が失われてしまい、文字どおりの遊びもできなくなる」ということを、自分の経験を交えて説明しました。

 この「遊びの喪失」は、遊ぶことだけでなく、さまざまなことを困難にします。

 たとえば「楽しむ(エンジョイする)」「自分と違う立場の人の気持ちを受け止める」「感動する」などは、精神的ゆとりがあってこそ可能になるものです。

 したがって、精神的ゆとりを失った人は、たとえば「楽しむ(エンジョイする)気持ち」と「怠け心」の区別がつきません。それどころか「楽しむ(エンジョイする)気持ち」は、直面している問題から目をそらす現実逃避の態度だ、と感じる人さえいます。かつての私のように。

 また、自分の現状を否定する人を拒絶し、激しい反発を示します。それどころか、否定しない人に対しても、必要以上に警戒心を抱きます。

 さらに、自責の念や負い目が影響して、自然や人間のいろいろなことに対して“純粋に感動する”ことが難しくなります。

 たとえば、5月5日転載文でお話ししたように「こんなに気持ちのいい季節なのに、なぜ外出しないのか」と不思議がる親御さんがおられます。

 また「うちの子は親が泣いているのを見ても何も感じていない。精神異常ではないか? もともと感受性が欠落しているのではないか?」と心配する親御さんもおられます。

 さらに「障碍者が書いた本を読ませれば、感動して“頑張ろう”と思って登校するのでは」とか「犬を飼えば、心豊かになって、元気になって登校するのでは」などと考えたり、それを実行したりする親御さんもおられるでしょう。

 要するに、本人の状態として、無関心・無感動という反応が目について心配になるわけです。

無関心・無感動は現在の状態

 しかし、これは本人の<現在の状態>なのです。本人は異常でも欠陥人間でもありません。精神的ゆとりが失われた人に共通の状態を呈しているだけです。

 自分自身の苦悩が大きすぎ、外の空気を吸うことに快さを感じることが、取るに足らないことに思われて、その気になりません。

 親に泣かれるのは辛いに決まっています。でも、ただでさえ辛い毎日を送っているのに、さらに親に泣かれることによって、ますます自分自身を支えることで精一杯になり、親の気持ちに応える(たとえば謝罪する)ことができません。あるいは、自分の問題で泣くという親の反応に呆然として、どうしたらいいかわからなくなる、という面もあります。

 さらに、障碍者が書いた本を読んで、感動し「頑張ろう」と力がわくのは、それこそ精神的ゆとりを持っている証拠です。

 それがきっかけで動き出す人がいるとすれば、その人は精神的ゆとりが回復してきていた、つまり、タイミングがよかったわけです(5月19日転載文参照)。

 犬を飼っても、期待どおりの結果を得るのは難しいでしょう。ただ、期待していない結果、たとえば動物を大切にする心が育つ、などという効果は得られるでしょう。

                           <後編に続く>

不登校・ひきこもりに関する研修費に充て、相談支援のスキルアップと充実したメルマガ掲載文執筆に還元させていただきたく、よろしくお願い申し上げます。