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<願い>と<思い>を統合する(前編)

※2002年10月に創刊し、掲載文が200本を超えたメールマガジ(メルマガ)『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』のバックナンバーから厳選した100本(予定)の掲載文を、毎週1本ずつ転載しています(歳月の経過を踏まえ、字句や一文、一段落など小幅な修正をしている場合があります)。

※残り2か月となったきょうは、4年前の10月に配信された第232号の掲載文です。当時の年数は現在の年数に書き換えたほか、当時の表現が変わっている部分は現在使っている表現に書き換えています。

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不登校/ひきこもり本人の「葛藤」とは

 前回私は、不登校とひきこもりをめぐる2018年度の当事者経験者(不登校ひきこもり状態の渦中を過ぎた人たち)中心の動きに、同じ立場であるはずの当事者経験者から批判が出た理由のひとつである「各自の経験から来る不登校・ひきこもりへの捉え方の違い」と、その点を踏まえた議論や働きかけの注意点をお伝えしました。

 そこで今回は、働きかけの注意点で述べたことの根拠でもある「<願い>と<思い>の葛藤」について、メルマガ176号の掲載文でお伝えした内容を補足説明したうえ、その心理への対応のあり方を提案します。

 不登校/ひきこもり状態の渦中にある本人たちは「<学校/社会に戻る-戻らない>という葛藤を抱えている」とよく言われます。

 しかし、私は本人たちの葛藤は、もっと奥深いものだと考えています。

 すなわち「“普通”に戻りたい」という<願い>と「自分を守らなければ」という<思い>の葛藤です。

 前者からは、現代のわが国で“普通”とされている「学校/仕事に通う」を「実現したい」あるいは「実現できていない自分はダメ人間だ」などという気持ちを示す言動が表れます。
 後者からは「自分のペースを守りたい」「自分を殺してまで戻らなければならないのか?」「学校/社会には何の問題もないのか?」などといった気持ちを示す言動が表れます。

 この<願い>と<思い>という相反するふたつは両方とも本心であるため、どちらかを優先したり捨てたりすることができず、綱引きしている状態なのです。私は、これこそが不登校/ひきこもり状態の本人が抱えている葛藤の実態だと捉えています。

 では、このような葛藤に苦しんでいる本人に、周囲の人々はどのように働きかけているでしょうか。

両方とも本心なのに

 多くの親御さんあるいは学校/社会復帰を指導・支援している教員や関係者は「明日から学校に行く」「資格をとるために勉強する」などと復帰をめざす意思を口にする本人に対し、それを根拠(本人が「“普通”に戻りたい」と願っている)に学校/社会復帰支援を実践するのが当然と断言なさいます。

 その人々に前述のような本人の<思い>から出た気持ちを伝えても、“雑念”“理想論”などとしか受け止められず「そんなきれいごとは捨てて復帰への努力に専念すべき」となるでしょう。

 反対に、一部の親御さんあるいは本人に寄り添う立場を貫いている関係者は「“普通”に戻りたいという<願い>なんて、世間の常識に毒された建前なんだから、そんなものは捨てて<思い>のままに生きればいいじゃないか」と、やはり断言なさいます。

 どちらも本人の気持ちの片方をつかんでいるわけですが、もう片方は軽視または否定しています。しかし、前述のとおり本人にとっては両方本心ですから、どちらの働きかけにも違和感や反感を持ってしまう場合が少なくないわけです。

 実際、先ほど挙げたような「自分を殺してまで戻らなければならないのか?」「学校/社会には何の問題もないのか?」などといった本人の発言、また「“学校なんか行かなくてもいいじゃない”と語りかけたら“他人ごとだと思って!”と反発された」などといった親御さんのお話、ともによく聞きます。

 前号で私が「良い/悪い」「肯定/否定」などと両サイドに分かれて争うことや「結論ありき」の断定調、言い換えれば確信に満ちた言説に注意すべきとお話しした理由に、この「<願い>と<思い>の葛藤」があることがおわかりいただけたかと思います。

 では、親御さんや関係者の人々は、このような葛藤にどう対応すればよいのでしょうか。

                           <後編に続く>

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丸山康彦
不登校・ひきこもりに関する研修費に充て、相談支援のスキルアップと充実したメルマガ掲載文執筆に還元させていただきたく、よろしくお願い申し上げます。