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卵を温める親鳥のように (前編)


 ご存じのとおり、不登校/ひきこもり状態になると、多くの場合、終わるまで何か月あるいは何年もの月日が費やされます。
 もし、この月日が無意味なものだとすれば、不登校/ひきこもり状態は大
きな損失ですから、絶対にあってはならないもの、ということになります。

 不登校状態について言えば、不登校の期間を無意味だと考える人は「不登
校状態の間は、本人の成長は止まっている」とイメージしているのではないでしょうか。
 もしそうだとすれば、不登校状態が終わった時点でも、本人の成長は、始
まった時点と同じレベルのまま、ということになります。そこから再び成長が始まるわけですから、成長が止まっていた期間分、ほかの同世代より遅れをとってしまう、というとらえ方になります。

 私は、自らの不登校体験、および見聞、相談事例を通じて「不登校状態にある期間も、本人は成長している」と確信しています。
 つまり、不登校状態が終わった時点で、本人の成長は、始まった時点より
も高いレベルにあるわけです。遅れをとるとすれば、私のように留年したから同期より卒業が遅れたとか、同期は就職したけど自分はまだ大学生だとか、そういう社会的な意味での遅れであり、社会に出れば一緒、という程度の話です。精神的な遅れなど大してありません。

 他方、不登校状態に比べると、おとなのひきこもり状態は、そう単純に割り切れないところがあります。
 青年期は人格の完成期=成長が終わる時期とされていますから、子どもの場合のように「成長」という物差しでイメージすることは難しいかもしれません。
 しかも、社会に出なければならないとされている年齢で閉じこもっているわけですから、遅れをとることが本人の人生にとって決定的な(とり返しのつかない)ことに感じられます。

 そこで、ひきこもり状態については「成長」ではなく「変化」(成長は変
化のひとつですから同じようなものなのですが)という言葉を使って、次のように指摘しておきます。

 ひきこもりの期間を無意味だと考える人は「ひきこもりは、単なる無為徒食にすぎない、人生の空白期間だ」とイメージしているのではないでしょうか。
 もしそうだとすれば、ひきこもり状態が始まったときに本人がいた地点と
終わったときにいた地点とが同じ、ということになります。すなわち、社会から脱落した本人が社会に戻っただけ、というとらえ方です。

 私は、自らのひきこもり体験、および見聞、相談事例を通じて「ひきこもり状態にある間、本人は変化している」と確信しています。
 つまり、ひきこもり状態が始まったときにいた地点と終わったときにいる
地点は、必ず違うのです。

 しかし「うちの子は来る日も来る日も同じ生活をしていて、とても成長(変化)しているとは思えない」と感じる親御さんは多いと思います。

 確かに、学校や職場のように評価があり、人間関係のなかでさまざまな出来事が起こる毎日は、本人の成長(変化)が見えやすいです。それにひきかえ、不登校/ひきこもり状態では、それはほとんど見えません。
 しかし、これは卵の中が見えないのと同じことで、本人のなかでは、目に見えない成長(変化)が、ゆっくり起きているのです。

                           <後編に続く>


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