朝、1限目に向かう

 1限を控えた朝、都内の明るさはカーテン越しにも伝わってくる。自分はどうも目覚まし時計の音が苦手で、鳴る直前に起きるという特技を持っているが、それは目覚ましを解除する億劫さを帳消しにしたりはしない。目を瞑りながら布団の中でポジションチェンジを重ねていると、この世で私の最も嫌いな音が鳴りだす。昨日の夜、大音量に設定した自分が憎い。隣人の安眠を妨げるほど私は性格が良くないので、寝ぼけ眼のまま手探りでアラームを止める。続いてのそのそとカーテンを開けに行く。私はこの瞬間が好きだ。瞼を自分の意思で開けていられないほどの光と熱が身を包み、何か人智を超えた大きな力に相対したような気分になる瞬間が、である。暫くして振り返ると机や床に広がる現実感が私を襲い、それから逃れるように私は服を脱ぎ、いそいそと熱いシャワーを浴びに行くのだ。

 朝7時40分ごろ、42分発の各停に間に合うように駅に着く。都内の朝は地元よりもキラキラしているように感じる。空気中の埃かpm.2.5か知らないが、光を乱反射しているためだろうか。いずれにせよ、それで憂鬱さが些か晴れるのであれば、大気汚染も悪いものではないような気がしなくもない。ホームはいつも人でごった返している。適当なところで立ち止まりスマホ越しに周りを眺めていると、世の中いろんな人がいるものなんだなと感慨深くなる。イヤホンをつけ、もはや生足の方が面積の大きいようなデニムを履いた金髪の女性。もみあげの長さくらいしか人に自慢できそうにない、独り言を呟き続ける中年の男性。謎のパステルカラーに身を包み、バッグから生活感が透けて見えるパーマのおばちゃんなど、朝にはそぐわないほど多様性に富んだメンバーの背景を考えてみるのも面白い。といったようにぼんやりしていると、つんざくような警笛と共に収容施設のような趣を孕んだ電車がやってくる。

 車内でまず味わうのは無力感だ。自分のちっぽけさを味わいたい人は、はるばる滝を見に行くより満員電車に乗った方が早い。なんとも言えないような熱気と匂いの中、全員が無言で電車の進行を待つ。今、運転手が急ブレーキを踏んだなら雪崩で3人ぐらいは絶命するに違いない。我々は運命共同体なのである。これは東京の友人が教えてくれたことなのだが、全員が片手に吊り革、片手にスマホを持って立っているのは痴漢の疑いをかけられないようにするためでもあるらしい。私もそれに倣いながら、ちょくちょく悪くなる電波に苛立ちつつもXを眺め続ける。私のタイムラインだけかどうかは分からないけれど、世の中には異性や外国人を憎む人しかいないのかと勘繰ってしまうほど読んでいてつまらないポストが多くて嫌悪感のあまり目を閉じてしまう。コンタクトレンズの調子が悪い日ならば尚更だ。心に余裕のない人間にはなりたくないと強く思う。こんな狭い車内にいようと、周囲の人を憎むのではなく、向こうも同じ思いを抱えているのだと同情したい。体の折衝があった時にも苛立つのではなく、申し訳なさを抱くようにしたい。なぜなら私たちは作用反作用の法則で繋がれた運命共同体なのだから。

 そうこうしているうちに駅に着く。他の人々と共に階段を上がり改札を出る。定期券のピッと鳴る音には、1日が本格的に始まるという雰囲気が含まれているような気がして私は結構好きだ。左に曲がり広告を横目に階段をゆっくり降りると目の前には大学が広がる。正門の前では交通整備のおじさんが熱心に挨拶を呼びかけているが、挨拶を返す人はまばらだ。こういう人の姿を見ると気の毒になるのは私だけだろうか、軽く会釈をして新緑に彩られた大学構内へと歩を進める。回らない頭で思い返すと、朝起きた時より何故か憂鬱さは軽減されていることが多い。それでも、それでもである。やはり1限は廃止すべきだとつくづく思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?