生きるとは

人はなぜ生きるのだろう。小学生くらいの頃からずっと考えてはいた。大学生になるまでは、何らかの夢のために生きていたためなんのために生きるのかということについて悩むことは無かった。むしろ悩んでいる人を見て冷笑までしていただろう。ただ、いざ大学生となり将来への道筋が現実味を帯びてくると、どんな夢であっても本当に"夢"のために生きていきたいのか、と思うようになりなぜ生きるのかという根本となる疑問に再帰してしまった。その点について1度答えは出た。私は死にたくないから生きているのだと。しかし、これはよく考えると答えになっていない。これは生きていく理由であることに間違いは無いが、なぜ"生きる"のかという能動的な理由にはなっていないのだ。では私はなぜ"生きる"のか。答えは分からない。私はなんのために生きているのか。
友人にはそんなことを考えたことがなかったと言われた。確かに世間的にはそうなのかもしれない。ただ自分は"なぜ"を考えてしまった以上"なぜ"のない人生を歩むことは出来ない。知らない世界のことは知らないで生きていけるが、1度知ってしまうと知らないフリは出来ないのだ。
生と死は表裏一体である。そこで、死からなぜ生きるのかを考えてみるのかどうだろうか。死とは1つのタイムリミットである。これが来てしまえばなぜ"生きる"のかなんてことは考える必要が無い。いや考えることは出来ない。死後の世界、来世があると言った意見も考えられる。これに関して異議を唱える気も間違っているというつもりも私には無い。ただ、死んだ後の世界なんて何ひとつとして分からないのだから考えても仕方が無いのだという風にカントのように考える。自分が死んでしまえば自分の知覚でできてるこの一人称の世界は終わる。この世界は終わらないのかも知れないが、自分の知覚する世界が終わるというのは、自分が知覚することで自分の中に生じたこの世界が終わることと何ら違いは無い。だからこそ自分の死後歴史に残る仕事がしたいと考えるのは原理的に言えば間違っている。なぜならこの世界は自分が死んだら無くなってしまうのだから。ただ未来のために行動する自分に対し酔いしれ今の自分が幸せになれるのなら間違っていない。実にひねくれた見方だ。間違いや正解の二元論で生きているとこうなってしまうのだろう。ただ私はこうでしか生きられない。
話を本題に戻すと、死がなぜ生きるのかのタイムリミットということが分かった。ただまあやはり答えは出ない。
出来れば大学生のうちにこの疑問への答えを出したい。"人はなぜ生きるのか"。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?