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『碧と海』 連載小説【10】

   ぶぶぶぶぶ

 芝辰朗は、何の解決も与えてくれなかった。「何か困る事があったら連絡してください」とカウンセラーらしい言葉で締めくくっただけだった。最初から感動的な何かがあるとは期待してなかったけど、でも……。母との関係もアレだったし。そもそも、彼が父親なのかも疑わしくなってしまった。あの夢も記憶ではなく、ただの夢なのかもしれない。少なくとも、ツノが生えた男は芝辰朗ではないようだ。こういう状況を何て言う? 期待はずれ。

 俺は一度駅まで戻り、今度はバスに乗った。次の目的地は「鈴木荘」だ。期待はずれじゃないといいけど。
 つうか、そもそも、俺は何を期待してる?

 バスを降りるとむわっとした午後の行き場のない熱気が俺を包み込んだ。「さてと」と、バス停の周りを見渡した時、俺の後ろから人が一人降りて来た。降りるのは俺くらいだろうと勝手に思っていたからちょっと意外だった。何となしに視線をやると、驚いたね。ガス・ヴァン・サントの映画の中から出てきたような、眼差しがどこか憂いを感じさせる美少年だった。たぶん、俺と同じくらいの歳。猫みたいに少しつり上がった目と、高すぎない鼻、桜色の唇が、黄金バランスで配置された端正な顔立ち。するりとした白い肌に控えめに散らばるそばかす。日本人離れした顔に落ちる髪は黒くて柔らかそうにうねっている。和と洋が合わさった、なんて不思議な美少年。くたびれたグレーのTシャツにそれより濃いグレーのハーフパンツという色褪せた格好も映画の主人公みたいに様になってる。漂う倦怠感とふてくされたような態度さえ、その美貌を引き立たせるのに一役買っている。そして何と言っても、その瞳。瞳が……。見とれていると、彼と目が合った。怪訝な顔で俺を見てる。見とれてたなんて思われるのが恥ずかしくて、思わず「あ、あの」っと声を掛けてしまった。

「何?」

 あからさまにけんか腰な言い方。でも、その、俺を睨みつける瞳が……。

「あ、あのぉ、この住所に行きたいんだけど、どの辺か分かる?」

 咄嗟に出た言葉としては上出来だ。俺は、握りしめていたメモ用紙を彼に見せた。彼はメモを覗き込んだ。長い睫毛に瞳が隠れた。

「へぇ、鈴木荘……ね」

「知ってる?」

「住所、間違ってない?」

 瞳がこちらを向く。光が差して、あっ……。

「そ、そのはずだけど」

「あの酒屋の看板。その看板のとこを右に曲がって、まっすぐ行くと水色と黄色のアパートが並んでる。その辺」

「ありがとう」

 あぁ、瞳の色が、緑だ。
 深い、深い緑色だ。限りなく黒に近い。
 でも、光が差すと色付く。

「ねぇ」

 緑色の瞳の彼が眉を寄せていう。見とれてたのがバレたか。

「それ、ケータイで地図見れば分かるんじゃないの?」

 バレてない。

「そうだね。迷ったら調べるよ。ありがとう」

 緑の瞳の君は「変な奴」とでも言いたそうにフン鼻を鳴らすと歩き出した。今、教えてくれた方向と同じだ。気持ちが読まれているのか、緑の君は振り返って、

「俺もあっちに行くの。悪い?」

と、言った。

「全然」

 俺は首を振る。
 緑の君は一瞥をくれると、俺の前を歩き出した。
 結局、緑の君も酒屋の看板で右折し、しばらく俺の三メートルくらい前を歩いていた。そして、水色のアパートが見えて来たところで立ち止まった。なんとなく俺まで立ち止まる。しばらくして彼は少しだけ振り返って俺を見る。俺を呼んでいるような気がして、近づいてみる。

「どうしたの?」

 彼はポケットに両手を突っ込んで、かかとを潰して履いているコンバースで小石を転がしている。

「頼みがあるんだ」

 物を頼むような態度には見えないのだけど、一応頷いてみる。

「何?」

「……許す、って言って」

 許す?
 小石を蹴るのを止めて、そっと俺の顔を伺っている。

「えっと、何かされたっけ、君に」

「ダメならいい」

 そう言って伏せた彼の目から何かが消えたような気がした。

 許す。俺が? 何を?

「ゆ、許すよ……。
 これでいい?」

 彼は目を伏せたまましばらくじっとしていたけど、やがて水色のアパートの方へ歩いて行く。そして一階の一番端っこのドアに消えて行った。

「なんだよ、あれ」

 思わず首を傾げる。なんだかよく分からなかったけど、「許す」という言葉には素敵な響きがあった。

 俺は許せるのだろうか。許されるのだろうか。

 緑の君が入って行ったアパートの看板には『カーサ鈴木B』と書いてあった。

「Bってことは、Aは……」

 俺は道路を挟んで向かい側に建っている黄色いアパートを見た。明るい黄色で塗られた壁には『カーサ鈴木A』とあった。

 『カーサ鈴木A』の看板に書いてある住所は、メモに書かれている住所と同じだった。しかし、アパート名が違う。汚い字で書いたメモには『鈴木荘A棟』とあった。『鈴木荘』と『カーサ鈴木』。
 黄色い壁は目が痛くなるほど明るくてきれいだったが、建物全体から受ける印象は古くさい。築年数はかなりいってるようだ。たぶん、外壁だけ最近塗り直されたに違いない。住所が同じってことは、改名したのだろう。つまり、ここは俺が住んでいたアパートだ。母さんと二人で住んでいた小さなアパート。
 俺は周りの景色を見渡す。だだっ広い空、控えめに茂った青々とした木々、その間にぽつぽつと立ち並ぶ家々。……………。やっぱり見覚えがない。感慨も起こらない。ノスタルジーも感じない。センチメンタルな気持ちも湧いてこない。

 それでも、頭の中がざわざわしているような嫌な感じがする。

 ぼんやりとアパートの前に佇んでいると、白い軽自動車が目の前を通り過ぎ、水色の『カーサ鈴木』の駐車場に止まった。運転席から坊主頭のどこぞの営業マンのような風貌の中年男が出て来て、緑の君が入っていった部屋の呼び鈴を押した。ドアが開くと男は躊躇もせずに入っていく。すると入れ違いに女の人が出て来た。スウェットのショートパンツに黒いだぼだぼのTシャツ、茶色いパサついた長い髪をかきあげながらあくびをした。一目で分かるヤンキーだ。彼女はタバコに火を点け、玄関の前にしゃがみ込み、スマートフォンをいじり始めた。すっぴんだと思われる顔はきれいな造りで、どことなく緑の君に似ているような気がした。お姉さんかもしれない。いや、恋人か? 俺は思い切って彼女に近づいた。
 彼女は気怠そうな顔で俺を見た。似てる。緑の君の目と同じ形の目だ。
 近くで見ると思ったより年上のようだった。皺とくすみが、もうどうしようもないさ、というように顔に張り付いていた。でもそれらを化粧で隠せば十歳は若くなりそうだ。

「何?」

 言葉と一緒に吐き出されたタバコの煙が鼻をくすぐった。

「すいません。このアパートって、十年前は『鈴木荘』って名前じゃなかったですか?」

 彼女は面倒くさそうに、

「あん? 知らねえよ」

と吐き捨てた。

 俺は「すいません」と頭を下げて行こうとした。すると、

「隣の家が大家だから、聞いてみたら? ほら、そこの木ぃしか見えねぇ家」

と、彼女は指をさして教えてくれた。確かに、黄色い『カーサ鈴木』の隣にうっそうと茂った木々があった。その奥に家があるのだろう。俺は改めて彼女に頭を下げ、その木しか見えない大家さんの家に向かった。道路を横切る時、女がケータイに向かって話す声が聞こえた。

「今暇なんだけどさ、迎えに来いよ。五分で来い。あん、五分だよ」

 たとえ美人でも品がない人は嫌いだ。言葉遣いが悪くてもガニ股でも、桂木には品がある。あのヤンキー女には感じない。弟かもしれない緑の君の方がよほど品があった。態度は悪かったけどね。


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