『碧と海』 連載小説【37】
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
バスが来るまでまだ時間があったから、カーサ鈴木まで足を伸ばす事にした。忘れてはいるけど、自分の生まれ育った場所を桂木にも見て貰いたかった。
水色と黄色のアパートに近づくにつれ、周りの雰囲気が雑然としている事に気付いた。人が多い。しかも、皆、小さな声で何かを話している。
「パトカー?」
水色のアパートの前にパトカーが二台止まっていた。少し離れた場所に、人だかりが出来ている。
「事件?」
俺と桂木はアパートに近づいた。見ると、碧の母親の部屋のドアが開きっぱなしになっている。しかも、警察官が出たり入ったりしている。
「あっ」
この前会った原付の警察官の姿が見えた。腰の曲がったおばあちゃんと話をしている。
「お巡りさん」と呼ぶと、「あぁ、あの時の君か」と驚いたように声を上げた。
「なんかあったんですか、あの部屋」
「君には関係ないだろ」
事情がわからない桂木が、俺の服を引っ張って説明を求めてくる。
「碧だよ。あの部屋、碧の母親の家だ」
それを聞いて驚いたのは警官のほうだった。
「母親? 君知ってるの? 刺された女性には子供がいるの?」
「え、刺された? 碧の母親が?」
「刺されたかどうかは言えんが。あの部屋の住人は早瀬由香って女性だ。知っているのか、君」
「早瀬。やっぱり、碧の母さんだ。え、何で刺されたの? 生きてるの?」
「だから、それは言えない……」
「男ぉが、女ぁを刺したんだぁ」
警官の隣にいた腰の曲がったおばあちゃんが突然口を開いた。
「男が?」
「おお、おそがいや〜、おそがいや〜。なんでおらっちのアパートは事件ばぁっか起きるんけ。ついこの間も人さらいがあったばぁっかだに」
ぶぶぶ、と頭の中をてんとう虫が飛んだ。
「おい、ばあちゃん、そんな事件ねぇよ。一体いつの話してんのさ」
「バカ言うんじゃねぇ。ここに住んでた可愛い子ぉがさらわれただじゃんか。警察のくせに知らねぇのけ」
ぶぶぶぶ、頭の中が震える。
腕に桂木の手が触れる。心配そうな顔で俺を見てる。
「ね、ねぇ、おばあちゃん」
声が震えていただろうか。
「それって、いつの話?」
「ええと、そうだなぁぁ。先週?」
おあばちゃんは警官に聞き返す。
「先週なわけねぇさ。それに、俺は知らんさ」
「ここに、住んでた子供がさらわれたの? 何歳くらいの子?」
「あぁ、確か、手の平ひろげとっただよ。これ、て」
おばあちゃんは右の手のひらを俺に広げてみせる。
いつつ。五歳。
「畑で、いっぺぇ遊んでただよ。可愛い坊っこだったわ」
ぶぶぶぶ、頭の中でてんとう虫が暴れている。
痛い。頭の中が痛い。
「ねぇ、佐倉、大丈夫? 顔色が……」
桂木の顔がこわばっている。俺、そんなにやばいのか?
「お巡りさん。刺された人の息子が『ペンションアリゾノ』で働いてる。連絡して。お願い」
そう言うと俺はその場を離れた。頭が痛い。
桂木は心配そうに付いてきてくれる。
裏の畑を通り過ぎ、気がつけばあの家の前に来ていた。
落書きまみれの家。
「なに、ここ」
桂木もちょっと引いたようだ。
俺は、鍵もかかっていないスチール製の門に手をかけた。
ぶぶぶぶ。
てんとう虫が飛んでいく。門を超えて家の敷地に入っていく。
待って、ちょっと待って。
俺は門を押し開けて入る。
パパなの?
そうだよ。
おいで、てんとう虫がいるよ。
おいで、お菓子があるよ。
おいで、おもちゃもあるよ。
パパなの?
そうだよ。
甘い香り。
甘い香りで息が詰まりそう。
何かが涌き上がってくる。
心臓が冷たい血液を流し始める。
……い。……い。
俺は、……い。……いのに。
オレンジ色の灯り、吸い込まれていったはずの何かが、逆に流れ込んでくる。
俺は、俺は、ここに来た事がある?
この家に、この家で、こ、こ、こ、こ。
「佐倉!」
気がつくと俺は、ゴミだらけのポーチでうずくまって震えていた。
桂木はこんな俺に戸惑っているようだった。
「……俺、この家に来たことがある。中に入ったことがある。思い出した。……少しだけど」
「……うん」
「ちょっと、俺の事、病院に連れてってくれる?」
再び「心のクリニック」にやってきた。
俺はソファに体を埋めている。
隣には桂木が、戦闘目前の武士のように背筋を伸ばしている。
芝辰朗は湯気のたつマグカップを俺の前のテーブルに置く。そして、ブランケットを差し出した。手を出さないでいると、代わりに桂木が受け取って、俺の膝の上に置く。
「えっと、彼女は一緒にいた方がいいですか」
俺は無言で頷く。
「それでは……大丈夫だったら話してください。君が思い出した事とはなんですか」
「俺は、誰かにさらわれた。アパートの近所に住んでいた、誰か。その家の門を、俺は開けて入った。おいで、と言われた。パパなの? って聞くと、そうだとその人は言った。それで……。よく分からない。でも、そこで何かが起こった。そう感じるんです」
芝辰朗は胸ポケットからボールペンを取り出し、手の中でくるくると回し始める。
「本当の事を教えて下さい」
「本当の事?」
「本当にあった事です」
芝は頭を掻く。
「俺、あなたに会ってますよね。五歳の時に」
「……会っています」
「じゃぁ、あなたが。あなたが俺を、さらった?」
芝は目を伏せてこちらを見ない。
「俺に、甘いお菓子やジュースをくれた?」
芝は口元を撫でると、ため息をつく。そして、重そうに口を開く。
「京子には何があっても君に言うなと言われていました。でも、もう、君は知るべきだ。そして僕は君に謝罪しなければならない」
体の芯が凍りそうなほど冷たくなる。
震える膝に、そっと温かな桂木の手が乗る。芝辰朗は苦しそうに顔を歪めながら話し始めた。
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