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『碧と海』 連載小説【27】

  ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ

 爽やかなオレンジジュースの香り。
 つるんと舌の上を滑るプリン。
 甘ったるい生クリーム。
 目を開けると居る。
 赤いジャケットに、にょーんとツノを生やして、黒ぶちのメガネをかけている。
 ニコニコして俺を見てる。
 少しイライラしながら、俺は見てる。
 俺が見てる。
 幼い俺、じゃなくて、今の俺が。

「パパじゃないでしょ」

 ツノが揺れる。表情はぼやけていて分からない。

「……あーんとね。パパじゃないよ」

 これは、夢だ。記憶じゃない。
 だって、いつもと違う。
 これは夢だと思いながら、部屋を見渡す。
 見ようとすると、その途端、オレンジの光りにかき消されて見えなくなる。

「パパじゃないよ。アンがね、ストーブの下にいるんだよ」

 LadyBird Ladybird Fly away home……
 碧の歌声が聞こえる。
 おうちへ急げ
 おうちへ急げ
 嫌じゃない
 お前なら嫌じゃない


 ぶぶぶ ぶぶぶ ぶぶぶ ぶぶぶ ぶぶぶ ぶ

 早瀬が運転するダイビングツアーのワゴン車は、男女十名を乗せて『アリゾノ』から三十分ほど離れた場所にある岩場へやって来た。拠点になる空き地には、すでに軽トラックと乗用車が停まっていて、数人がダイビングの用意をしていた。このスポットは穴場なのだとインストラクターがツアー客に説明していた。海水浴場のような砂浜があるわけでもなく、船が着けるような穏やかな場所でもない。ごつごつとした岩場で、海の色も深いブルーだ。
 俺は早瀬やインストラクターを手伝って、ダイビングの機材を運んだり、簡単な雑用をする。インストラクターとツアー客が海へ潜って行くと、早瀬は腕時計で時間を見ながらシュノーケルとマスク、フィンとライフベストを貸してくれる。

「今なら洞窟へ行けるな」

「洞窟?」

 早瀬に教えてもらいながら装備をすべて身に付け、水の中に入る。
 シュノーケリングはスキューバダイビングと違ってボンベがない。パイプ状になったシュノーケルを咥え、その先を海面に出して呼吸を確保する。潜ったら当然息ができないので、ライフジャケットを浮き輪代わりにして海面を浮かびながら海の中の世界を覗き込んで楽しむのだ。
 マスクやシュノーケルに水が入った時の対処法を教えてもらってから、待ってましたと海の世界を覗き込む。たちまち世界が変わった。
 自分の背よりは深いだろう白い海底が、クリアにはっきりと見える。透明度がすごい。石や岩が驚くほど色鮮やかに見える。海藻が揺れ、日の光が海底で揺らめく。岩陰に黒いウニがいる。小さな魚もいる。青や緑や黄色い魚。メジナやタイの仲間だと早瀬が教えてくれる。水族館で見るような魚が、自分と同じ海で泳いでいる事が驚きだった。
 慣れてくると、今度は色々な音に包まれている事に気がつく。波が砂を浚う音。石が擦れる音。トットっと魚が岩をつつく音。シュウシュウ頭の中に響く俺の呼吸。水から顔を上げると、また別世界だ。空気のある世界。光を近くに感じる世界。風が吹く世界。そんな当たり前の世界を実感する。

 何より驚いたのは、早瀬だ。

 ベストを俺に持たせると、早瀬は海の底まで貫く矢のように下りて行った。そして海底すれすれの所を泳いだかと思うと、するりと回転しながら上昇して行く。まるで人魚だ。水の中で白く浮き上がる早瀬の身体は、生き生きと生命に溢れているように見えた。例えでも何でもなく、本当に光り輝いていた。気がつけば俺は、魚や水中の景色を見るのを忘れ、優雅に舞う早瀬の事ばかり見ていた。そして、昨夜の早瀬の温もりを思い出す。あれは、俺への愛情表現だと思っていいのだろうか。「お前なら嫌じゃない」何が嫌じゃない? 嫌じゃない事ってなんだ。早瀬の身体がしなるたび、心臓の鼓動が耳元でうるさく響いた。
 早瀬は俺を連れて荒削りの岩の間を縫うように泳ぎ、大きな岩というよりは岩の壁のようなところへやってきた。

「ここが洞窟?」

 岩壁が割れてできたような空洞が、海面から少しだけ姿を現していた。浸食されて出来たのか、ただの割れ目なのか、幅も狭い。空洞の奥の方に光が見えるから、洞窟、というよりトンネル、と言った方が近いかもしれない。

「潜って通り抜ける。岩に頭ぶつけないように、一気に行けよ」

と、早瀬は俺を先に行かせる。

 シュノーケルがあるから息は大丈夫だけど、天井が低いと圧迫感がすごい。俺は大きく息を吸って、勢い良くフィンで水を蹴った。

 一、二、三……、数を数えながら、暗い海中を進む。

 四、五、六、七、八……。

 数えながら進み、明るくなった所でゆっくりと顔を出す。

「うわぁ」

 確かに、洞の窟だった。端から端まで十メートルはあるだろうか。天井もかなり高い。その天井に穴が開いていて、そこからスポットライトのように光が差し込み、海面を突き破ってまっすぐ海の底まで照らしていた。海面に反射した光がさらに岩肌をゆらゆらとライトアップし、ファンタジー映画で見るような神懸かった空間になっていた。

「すげえ」

 追ってきた早瀬が顔を出した。ちょうどスポットライトがあたる場所に。
 早瀬はシュノーケルをはずして仰向けになった。
 俺もまねして洞窟の天井を仰いだ。海面に反射した光がゆらゆらと写っている。

「すごいな、ここ」

「俺の秘密の場所」

「なんか、神の世界みたいだ」

「神が作ったんだ」

 声が、息づかいが岩にぶつかって落ち、水に溶けて行く。

「ホントはさ、早紀さんに教えてもらったんだ。ここ」

「へぇ」

「ここだけじゃない。隆さんと早紀さんに、海のこと色々教えてもらった」

 早瀬と、なんとなく目が合う。

「誰かをここに連れてきたの、初めてだ」

 小さな声が、透き通った空間に染みるように広がる。俺は、その声を海水を通して聞く。

「海斗なら、いいかなって思った」

 ぽちゃん、と早瀬は潜った。
 俺は、ぷかぷかと浮かびながら目を閉じる。

 海斗ならいいかな

 お前なら嫌じゃない

 だから、何がだよ。
 まさか、早瀬は、俺のことを? おいおい、俺ことを、何だよ。
 俺のことを何なんだよ。でも明日香さんは言った。碧、ゲイだから……。
 だから?

 あぁぁぁぁ、俺は手足をばたつかせる。水飛沫が舞う音が、楽器のように反響する。俺の苛立ちさえ、素敵な音色に変わっていく。
 あぁ、どうでもいい。なんか、どうでもよくなってくる。身体の力を抜いて目を閉じると、さらさらと、思考が耳から溶け出して、海と混ざりあう。その音に耳をすましていると、大袈裟だけど海の声が聞こえる気がする。
 生命の母なる海の声。穏やかで、ずっと身を委ねていたくなる。

 きっと生まれる前の俺たちはこんな気分だったのだろう。
 心地いい。いつまででもこうしていたい。でも、俺たちは帰らなければならない。もう一度、生まれなくてはいけない。

 フィンを外して浜に上がると、体が妙に重たく感じる。
 焼けたように熱い空気を吸い込むと、急に喉の乾きを覚える。
 人間の世界に帰って来たのだと実感する。

「海斗、血」

 車の脇に座り込んでペットボトルの水を飲んでいると、早瀬に腕を掴まれる。見ると左の肘から血が流れている。

「げ、気がつかなかった」

「岩に擦ったんだ。ごめん、長袖のラッシュガードがあればよかったんだけど」

 早瀬はペットボトルと奪うと、その水で血を洗い流し、傷口を確認した。

「石が入ってる。ちょっとじっとして」

 痛い。早瀬は容赦なく傷口を開いてくる。早瀬の濡れた髪から、潮の香りが漂ってくる。
 ……早瀬は、俺のことを?
 長い睫毛の下の緑色の瞳が、俺の傷口を写している。

「ダメだ。ピンセットあったかな」

 咄嗟に、立ち上がろうとする早瀬の手を掴んでいた。
 その時、世界中から音が消えたような気がした。
 俺は、早瀬の唇に自分の唇を重ねた。
 柔らかい感触と温かい熱を感じるだけの短いくちづけ。

「え、何?」

 早瀬が小さく呟く。俺は、すぐ近くにある緑色の瞳に問いかける。

「お前、俺の事を、好きなの?」

 緑色の瞳に意識がどんどん吸い込まれていく。
 おいおい、逆だろう。
 俺、早瀬のこと好きなのか?

「まぁ……」

 早瀬は冷静に答える。

「友達として、だけど」

「え?」

「俺、ゲイじゃないし」

 顔色も変えずにそう言う早瀬の前で、顔が真っ赤に染まる。握っていた早瀬の細い手首を離す。急に自分がしたことが生々しい形に変わる。恥ずかしい……。

「男とやってるのは、好きでやってるわけじゃないし」

 何も言えない。

「あと、あれだ、どうせ明日香が言ったんでしょ。俺がゲイだって」

「……うん」

「あいつ、いつもそうなんだ。俺が誰かと仲良くなるの邪魔するんだ。そうやって」

「で、でも、俺なら嫌じゃないとか、俺だったらいいかなとか、そういうの、そう言われたら、そういう風に思うだろ」

「そうなの?」

「だ、だいたい、説明がヘタなんだよ。何が嫌じゃないのか、何がいいのかちゃんと、具体的に言わないと、わ、わからない。勘違いするだろ」

「ふふっ。でも、海斗と一緒にいるの、嫌じゃないし、何してもいいと思ってるよ。俺、あんまり友達とかいなかったから、楽しい」

 そう言って、屈託なく笑う早瀬は、最初に会った時よりずっとキラキラしていて、魅力的に見えた。その魅力に捕らえられてしまった気がした。

「友達、ね」

「なぁ、お前、俺の事、好きなの?」

 早瀬のキラキラした笑顔が、みるみるサディストのそれに変わっていく。俺は恥ずかしくて崖から海に飛び込みたくなった。

「好きじゃねぇよ」

「じゃぁ、なんでキスしたの。友達同士でキスはしないんでしょ。普通」

「知らねぇよ」

 早瀬は楽しそうに笑いながら、立ち上がって救急箱を取ってくる。

「好きになっちゃったんじゃないの?」

 救急箱からピンセットを取り出しながら、俺をからかう。

「だから、知らねぇよ。痛っ」

 ピンセットが傷口に挟まっている小石を摘む。ぴりっとした痛みが走る。

「つうか、早瀬だって、痛てっ」

 今度は消毒液を傷に吹きかける。消毒液と血が混ざり合って腕を伝って行く。

「昨日は、早瀬が俺に迫って来たじゃないか」

 早瀬はピンと傷を指ではじく。痛い。

「冗談に決まってんじゃん。セックスとか出来ないっていうから。からかっただけなのに。なのにさ」

と言って早瀬が吹き出す。

「電話、かかって来てよかった。……ふふ」

 笑いながら、救急箱をしまう。

「冗談に思えなかったぞ」

「ふふ」

 早瀬は、客のためにベンチ、バーベキューコンロ、テーブルやらを車から引っ張りだす。早紀さんが仕入れてきた海の食材でバーベキュー料理を振る舞うのだ。

「それより明日、俺、休みだからさ。桂木さんも一緒にシュノーケリングしない? 車は出せないから裏の浜でだけど」

「あぁ、うん」

「あと、部屋ね、予約でいっぱいだからお前の部屋に泊めてくれって。隆さんが」

「あぁ、わかった。……え、まじで?」

「後で簡易ベッド持ってくよ。一応、ね」

 早瀬はまたニヤニヤしていやがる。

「だから、ないんだって。桂木にとって俺は恋愛対象じゃないんだよ」

「はいはい」

「早瀬だって、モテるんだろ。彼女とかいないのかよ」

「いないよ」

「作ればいいじゃん」

「彼氏が男に体売ってても大丈夫な女の子がいれば」

「もう止めるだろ。つうか、俺なんかと付き合ったら彼女が不幸せだ、とか思ってるんだろ。どうせ」

「思ってるよ。だって、あんたの彼氏の画像ネットで見たよ、とか言われちゃうんだ。俺のせいでその子も誹謗中傷を受けることになるんだよ」

「俺は気にしないけどな」

「お前と付き合う気はない」

「違う、俺と同じように思ってくれる子がいるはずだって話」

「止めろよ、そういう、根拠の薄い話。正しい大人の言葉みたいで気持ち悪いぞ。あ、ほら戻って来た」

 海からぽこぽこ頭が飛び出している。正しい大人の言葉、か。

「友達にキス出来るんならさ……」

 早瀬が海から出てくるダイバーたちを見ながら呟いた。

「彼女とセックスも出来んじゃないの」

「……それは、どうかな」

「あと、さっきの言葉、そのままお前に返す」

「え、どの言葉?」

 早瀬はクスクス笑いながら肩をすくめる。からかっているような、バカにしているような。クソッ。むかつく。


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