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『碧と海』 連載小説【24】

  ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ

 つるん、としたほろ苦いプリン。

 甘酸っぱいオレンジジュース。

 ふわふわとろける生クリーム。

 

 ママには秘密だよ。

 ママが知らない魔法だよ……。

 嘘。

 お前はパパじゃない。

 もう、夢に出てくるな。

 俺が言う。夢を見ている俺が言う。

 真っ黒な、真っ黒なメガネをかけると、赤いジャケットの男。

 現れた。いつもの、赤いジャケットの男だ。

「見てるよ」

 男はそう言ったような気がした。

 見てる? 何を、誰が。

「星を」

 なんのことだ。

「あの子」

と言って、男はメガネを外す。俺は驚く。
そこにあるはずの瞳がなかったから。
大きな黒い空洞をこちらにむけながら、男はニコニコと笑った。

 ぶ、……ぶぶ、……ぶぶぶ……。

「■■■!」

 何かを叫びながら目を覚ました。天井を天井だと認識出来てから体を起こすと、もう何を叫んだのか忘れてしまった。いや、もしかしたら叫んだのは夢の中で実際は叫んでないのかもしれない。よく分からないけど、体の中に、よく分からないものが、モヤモヤとうごめいていた。

 青白い早朝の空気の中、ひんやりとした砂浜でランニングし、熱いシャワーを浴びても、モヤモヤは留まったままだった。変な夢を見たのは、早瀬の告白を聞いたからもしれない。もしくは俺が欠陥を告白したから。でも早瀬の苦悩は俺のよりずっとキツいに違いない。聞いただけでも辛くなる。でも、聞いた事に後悔はしていない。もちろん話した事にも。

 朝食を取りに『レストラン・アリゾノ』に行こうとエントランスを抜けようとした時、窓越しに外のベンチに座っている赤メガネの男が目に入った。赤メガネはこちらに背を向け、スマホで何かを見ている。
 見ている? 
 視線を赤メガネのスマホの先に移すと、バンの荷台にボンベを積み込んでいる早瀬がいた。俺はもう一度赤メガネに視線を戻した。そしてこっそり近づき、窓のガラス越しに男のスマホを覗き込む。ボンベを積み込んでいる早瀬の顔のアップが写し出されている。

 むむっ。

 早瀬はボンベを積み込み終えると、こちらにやってきた。赤メガネはさりげなくスマートフォンをテーブルに置き、コーヒーを啜った。

「お、海斗。いたの」

「あ、あぁ、おはよ。早いな」

 俺は視界の隅の方でこちらを伺う赤メガネを気にしながら早瀬と話す。

「そ、ダイビングツアーの準備。海斗は、朝飯?」

「あぁ。お前はもう食ったの?」

「まだ。俺も一緒に食う。隣だろ? 先行ってて」

 早瀬は汗を拭いながら、軽やかに廊下を駆けていく。

 赤メガネがエントランスに入ってきて、空になった紙コップをゴミ箱に捨てている。その様子を見ていたら、赤メガネと一瞬目が合う。ニヤけた顔。なんでそんなに嬉しそうなんだ。くそっ、ムカムカする。赤メガネは別に俺を気にする事なく、横をすり抜けて階段を上っていった。

 香ばしく焼き上がったトーストを頬張ると、幸せな気分が涌き上がってくる。さっきのムカムカもすうっと忘れていく。
 こんな気分を味わいたいがために、俺はたまに喫茶店にモーニングを食べに行く。家で食べるトーストとは全然違うし、それに、我が家の朝ご飯は父親の好みでほぼ毎日玄米ご飯だから。
 まだ溶けきらないバターが乗った、最後の一切れを口に放り込む。口の中に酵母の香りとバターの乳臭い風味が広がった。
 目の前の早瀬はというと、付け合わせのサラダとベーコンと卵を無理矢理トーストに挟み込んだダイナミックなサンドウィッチを頬張っていた。口のまわりにケチャップが付くのもおかまいなしだ。昨日の早瀬特製チャーハンを思い出し、なるほどと一人頷く。

「何?」

「なんでもない」

 窓の外は青、青、青。オーシャンビュー。海を眺めながらのモーニングコーヒー。映画にしたいくらいのシチュエーションのおかげで、気持ちが明るくなってくる。ここに桂木がいたらな、となんとなく思った。
 ケチャップが付いてても見惚れるほど麗しい早瀬。その隣にちょっと不機嫌にコーヒーを啜る桂木の姿を思い描く。あ、違うな。桂木はコーヒー飲まないんだっけ。
 不機嫌に紅茶を啜りながら、桂木は早瀬が頬張る姿を眺める。

「付いてるよ」

 桂木が早瀬に指摘する。

「何?」

「ほら」

 桂木は早瀬の口元に指を伸ばす。つるつるしたピンク色の爪に、赤いケチャップがつく。

「あぁ」

と言って、早瀬はケチャップがついた桂木の指を咥える。

「まだ、ついてる」

 桂木は顔を寄せ、早瀬の口元をぺろりと舐める。舐める。

「ちょ、待っ……」

 膝が思い切りテーブルの裏を蹴り上げる。

「何?」

 驚いた早瀬が、怪訝な顔を向ける。

「あ、いや、悪い。何でもない」

「寝ぼけてんの?」

「あぁ、そうかも。一瞬、寝落ちした、かも」

「ふうん」

 食べ終わった早瀬は、紙ナプキンで口を拭った。

 願望? 心臓がドクドクと無駄に大きな音を立てている。

「海斗は今日、何すんの? どっか行くの?」

「あ、あぁ。『カーサ鈴木』に行こうと思ってる」

 言ってから、気付く。言わなきゃよかった。早瀬の母親がいる場所でもあるんだった。

「また? なんで」

 早瀬は顔色も変えずに聞き返した。

「あぁ、うん。思い出すかもしれないから」

「あれ、昨日言ってたやつ?」

「そう。あそこに住んでた時のこと。実は昨日、少し思い出した。だから、また思い出すかもしれない」

「ふうん。思い出したいんだ」

「そりゃぁ、まぁ」

「いい思い出じゃなくても?」

「え? そうなの?」

「いや、知らないよ。でも、いい思い出じゃないかもしれないじゃん。忘れてるってことは」

「まぁ、そうだよな。でもさ、思い出した方がいいような気がするんだ。いい思い出じゃなくても」

「そういうもんか?」

「ちょっと、勝手に撮らないでちょうだい」

 突然、入口の方から女性の声が響いてきた。
 振り返ってその方を見ると、背の高い女性が赤メガネ男の腕を掴んで捻り上げていた。女性が二言三言強い口調で言うと、赤メガネは手を振り払い、悪びれる様子もなく、面倒くさそうにその場を去っていった。

「早紀さんだ」

 早瀬がぽつりと言う。

「おっはよ、碧」

 早紀さんはよく通る声で言うと、こちらへやってきた。明るい色の長い髪を後ろで無造作に束ねていて、肌は小麦色で、歯は白い。たぶん、四十歳位だと思うけど、老けたイメージはない。健康そうな、いかにも海の女性、というイメージ。

「おはようございます」

と言う早瀬と一緒に、俺も挨拶をする。

「おお、君か、碧が連れて来たっつう。あ、ねぇ、あたしにもコーヒーちょうだい」

と、早紀さんは店員の女の子に言うと、隣の席の椅子にどかりと座る。

「早紀さん、仕入れ、ひとり?」

「そう。あぁ、冷蔵庫に入れなきゃ。碧、手伝って」

「いや、俺ツアーあるし」

「ケチ。仕入れ手伝ってもらおうと思って電話したのにさ。あんたケータイの電源切ってるし」

「あぁ、ケータイ、壊れたんだ」

「ほらぁ。だから早く新しいのにしろって言ったじゃん。まぁ、いい機会じゃないの。早めに変えておいで」

 うん、まぁ、と早瀬は言葉を濁す。海に水没したケータイ、やっぱりだめだったか。
 早紀さんは、店員の女の子が持って来てくれたコーヒーを美味そうにすする。

「あ、早紀さんは、このレストランのオーナー。そんで、隆さんの妹さん」

 早瀬が説明してくれる。ああ、なるほど。

「どうも、お世話になってます」

「どお? 楽しんでる? 海は行った?」

「あ、まだ……でも」

「行ってないの! ちょっと碧! なんで連れてってあげないのよ。何やってんの」

と、早紀さんは早瀬を小突く。

「明日、連れてくから。あ、俺もう行かないと。じゃぁ、海斗、頼んだ」

 早瀬はコーヒーを飲干すと、いそいそと行ってしまった。頼んだ? 何を?
 ふと見ると、早紀さんが満面の笑みを俺に向けている。
 え、何。

「悪いねぇ、お客さんにこんな事させてぇ」

 俺はずっしりと重い発泡スチロールのケースを、早紀さんと一緒に調理場まで運んだ。

「今日、店の男の子が病欠しちゃってさ」

「別に、これくらいいいですよ」

「おぉ、いいねぇ、若いねぇ。あ、その上に乗せちゃって」

 俺は、調理台の上に発泡スチロールを乗せる。
 早紀さんが蓋を取ると、中に大小様々な魚が氷漬けにされていた。

「あの、さっきの赤いメガネをかけた人なんですけど……」

 俺は、思い切って聞いてみた。

「え? あぁ、あいつ」

「あの人が、早瀬の事隠し撮りしてるの見たんです。あれ、なんなんですか?」

「なんなんだろうね。たまにさ、碧目当てで、ああいうヤツが来るんだよね。いや、目当てで来てくれるのはいいのよ。実際、碧目当てのリピーターの女の子とか多いし。でもさ、海にも行かないでさ、隠し撮りみたいなことする、ああいう気持ち悪いヤツもいるわけ。碧は放っといてるみたいだけど、私はなんか、嫌いなんだよね。コソコソしたヤツ。嫌じゃない?」

「まぁ、嫌ですね」

 早紀さんは手を止め、失礼なくらい俺の顔をじろじろ眺める。

「ふふふっ」

「な、何笑ってんですか」

「碧がさぁ、明日香以外に友達連れて来たの、初めてなんだよね。ま、明日香は碧が連れてくるっていうか、勝手に押し掛けてんだけどね」 

 早紀さんは発泡スチロールから魚を取り出すと、バットに並べていく。

「十三歳だったかな。初めて会った時のあの子。なぁんか、青白くってひょろひょろしててさ、放っておいたら死んじゃいそうな感じだったんだよ」

「そんな前から知ってたんですね」

「台風が接近して海が荒れ始めた時にね、岩場にいたんだよ。何やってんの? 危ないよって声かけたらさ、別に見てただけだって。よく見たら靴を履いてなかったのよ。そんで、足にいっぱい傷が出来て、血が流れてんの。なんか、このまま放っといたら本当に死んじゃうと思った。だから、ここに連れてきて、風呂に入らせて、何か飲ませたり食べさせたり。まるで捨て猫とか拾ってきたみたいな感じだったな」

「そうだったんですか」

「それからよくここに来るようになってさ。私も兄貴も海に連れ出しては潜りやボードを教えて、何とか青っ白いもやしみたいのを健康的な男子にしてやろうとしたわけよ。まあまあ逞しくなったと思わない? 白いのは兄貴と同じでどうしようもないけどさ」

「ふふ、早紀さんて頼もしいんですね」

「別に、人助けが好きとかいうわけじゃないのよ」

「でも、早紀さん、頼りたくなる雰囲気ありますよ。助けてくれそう」

「そういうことなのかなぁ。本当はね、ヒュー・ジャックマンみたいな人にグイグイ引っ張ってもらいたいんだけどさ。目につくのは弱った男ばっか。何年か前にも、栄養失調で死にそうになってた男拾ってね。結局それが私の旦那様」

「まじすか。あ、結婚してたんですね」

「一応ね。旦那は年中いないけど。今は、コスタリカだったかな」

「何してる人なんですか」

「自称冒険生物学者。正確には、ただのヒモ」

「すごい。早紀さんの甲斐性って半端ないですね」

「でしょ。君、分かってるね。嬉しいなぁ。兄貴も碧もバカにすんのよ、私の事。男見る目が無いつって。つうか、碧、あんたが言う? って話よ。誰の甲斐性のおかげでいい男になったと思ってんの、ってさ」

 早紀さんは話しながら、器用に食材を片付けていき、全てが冷蔵庫に収まった。

「ありがとうね。手伝ってくれて」

「いえ、これくらい全然」

「海斗くん、あいつと仲良くしてやってね」

 早紀さんは白い歯を見せて微笑んだ。

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