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『碧と海』 連載小説【36】

 朝食を終えると、桂木は荷物をまとめた。俺は一緒に行きたい場所がある、とだけ言うと、桂木のキャリーバッグを持って『アリゾノ』を出た。バスに乗って下田駅まで行き、キャリーバッグをコインロッカーに預け、また違うバスに乗る。

 着いたのは、最初に来た海だ。
 林を抜け、浜に出ると、桂木は「すごい」と声を上げた。

「ここで、碧と会ったんだ」

 桂木は眩しそうに景色を見渡した。

「あの崖から飛び込んだ」

「え?」

「死んだと思った。俺、慌てて海に飛び込んだんだ」

「まじで?」

「なのに、碧は、別にただ飛び込んだだけだって、けろっと」

 俺はゴツゴツした岩の上を、適当に歩きながら話し続ける。

「桂木は、死にたいなんて思う事ないだろ」

「……深刻には、ない、かな」

「別に、俺だって深刻にそう思うわけじゃない。ふと、思うんだ。気がつくと、黒い闇がすぐ手に届きそうな所にあるんだ」

「え? 佐倉が?」

「……そうだよ」

 桂木は立ち止まって、よく分からない表情をしていた。

「それを、ちゃんと話さなきゃと思って」

 波の音にかき消されないように話すには、意外と大きな声を出さないといけなくて。大きな声で話すと、なんか、作り物、というか、作り話みたい。

「ねぇ、俺はさ、まじでセックスとか出来ない、と思うんだ」

 大きな声で言う事じゃない。でも、ちゃんと声を出さないと桂木に届かない。

「俺はさ、まじで桂木が好きだったんだ。

 でもさ、出来ないんだ。欠陥品なんだ

 それでも、捕まえたかったんだ、桂木を。一緒にいたかったんだ」

 桂木は厳しい顔でこちらに近づいてきた。そして、俺の真ん前に立つ。

「あのさ、過去形ってどういうこと」

 鋭い桂木の目。

「好きだった、って過去形なのはなんで? 今は?」

「……正直分かんない。俺の事好きなんて言う桂木のこと、好きになれるか分かんねぇ」

「佐倉って、まじでM?」

 そう言ってフフっとは笑わず、うんざりしたようなキツい視線を突き刺す桂木は、本当にかっこいい。

 

 岩の日陰に俺と桂木は並んで腰を下ろし、足だけを温い海水に浸していた。

「もっというと、自分でやるのも無理。その、自慰行為ね。
 でも、性的に興奮はするんだ。昨日の夜だって、俺、桂木と一緒にいてずっと勃起してた。あ、嫌? こういう話」

「ううん、嫌じゃない。ちゃんと聞く」

「桂木に触りたかった。でも、そういう気持ちが強くなればなるほど、体が拒否反応を起こすんだ。冷や汗が出て、胃が捩じ上げられるように痛くなって、震えが止まらなくなって」

「恐怖症……」

「え?」

「あ、よく分かんないけど、恐怖症の反応ってそういうものなのかなぁって」

「恐怖症か。そういうやつなのかも。碧はトラウマがあるんじゃないかって」

「そうなの?」

「分かんない。ホントに、俺、自分のこと分からない。分かってるのは、好きになった子を幸せに出来ないってことだけ」

「えっと、それは、私の事だと受け止めていいわけ?」

「嫌だろ。こんな面倒くさい俺」

「あのさ、セックスをしたくても出来ないっつうのが辛いのは気の毒だと思うし、どうにかしてあげたいと思う。でも、私が困るとか、幸せじゃないとかは、無い」

「いいよ、そういう、慰めは」

「そうじゃなくて。私、そもそもやる事ばっかり考えてる男子とか、体を許す許さないで駆け引きしてる女子とか、嫌いなんだよ。うんざりする。行為と自分に酔ってるだけで、相手を見てない。佐倉は、そういう奴じゃないと思ってたし、がっつかない佐倉はかっこいいなとか思ってた。大人なのかなって」

「はい、違いました」

「それに、セックスが出来ないって理由で私は不幸になったりしない。少なくても今は。問題はさ、佐倉がセックスしたいのかどうか、じゃね」

「俺が?」

「そう。やりたくてたまんないのに出来ないのと、したくないのは違うでしょ」

 あぁ、そうか。

「俺は、出来ない自分が、普通じゃない自分が嫌で……」

 波が浚う。
 波が浚っていく。

「朝起きたとき、寝てる桂木に触れたかった。猫をなでるみたいに」

「触れる、だけ?」

 俺は桂木の顔を見る。汗ばんで頬がピンク色に染まっている。

「うん」

「いいよ。触れば」

 栗色に光るふわふわとした前髪にそっと触れ、額が見えるように横に流す。赤ちゃんみたいにふっくらしたおでこ。おでこをそっと撫で、熱い頬に触れる。

「触れたい、好きだから」

 俺は、そっと顔を近づけ、桂木の唇に俺の唇を押し当てた。
 昨夜とは違う。桂木の唇は柔らかくて、温かかった。
 潮の香りと桂木の付けている甘い柑橘の香り。
 二人の足に絡む温い潮水。
 飛び立つてんとう虫。空へ、高く、太陽の方へ。
 顔を離すと、桂木は恥ずかしそうに俯く。

「俺、信じてみるわ」

「何を?」

「お前が、俺を好きだっていう気持ち」

「悪かったな、分かりにくくて」

 

「ひとつ聞いていい?」

「なに?」

 俺たちは歩きながら、ぽつぽつと話す。

「佐倉が、私にレズなのか、って聞いたとき。もし違うって言ってたらどうした?」

「あぁ……。困った、かな」

「それだけ?」

「でも、やっぱり俺と付き合って、って言ったかな。俺と付き合うフリすれば、噂もすぐ消えるだろ。とか言って」

「やっぱフリ、なんだ」

「人は秘密を共有すると親密になれるんだよ」

「……はぁ」

「やめろよ、そういうどうでもいいってリアクション」

「ほぉ」

「安達がさ、桂木のこと狙ってる、みたいな事言ったんだよ」

「は?」

「可愛いって」

「まじか。あいつ、殴っとくか」

「殴るなよ。それ聞いちゃったら、なんか、焦った」

「バカだな」

「私が佐倉を睨んでたって言ってたけど……」

「うん、昼休みに一緒に遊ぶようになってからも冷たかったよな」

「睨んだ事ないから」

「嘘だろ」

「見てただけだし。あと、恥ずかしかっただけだし」

「まじかよ……」

「やっぱり、俺とやってるって思われたくない?」

「あー、今は、別に。どうでもいい。でも、聞かれたら言っとくよ。佐倉はドMだって」

「それは、まぁ、全然嘘ではないかもな」

「フフっ」

「言っとくけど、お前だってツンデレ半端ないからな」

「えぇ〜、ツンはないだろ」

「いや、ツンしかないでしょ」

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