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『碧と海』 連載小説【42】

 シャワーを浴びて砂と眠気を洗い流してから、俺は桂木をバスで駅まで送っていた。

「帰ったら、受験勉強だな」

 うんざりしたように桂木が言う。

「あぁ。ここんとこ何もしてないしな」

「とか言って、佐倉、余裕そう」

「そんなことない」

「あのさ、あれだったら、あれっつうか、さ、教えてくれない? その、勉強」

と、鋭い視線を突き刺す。人にものを頼んでいるとは思えない表情だけど、それが桂木らしくて可笑しい。

「いいよ。つうか、初めてだな。桂木に頼りにされるの」

「勉強ぐらいだもんな。頼りになるとこ」

「桂木」

 そう言って俺は桂木を抱き寄せる。

「ちょっと、やめろよ」

 桂木は慌てて、体を引き離す。赤くなった顔が可愛い。そう言うと、重いボディブローが飛んで来る。痛ってぇ。

「まじで、そういうのやめろよな」

「いってぇ。いいじゃん。俺たちつきあってんだから」

 桂木のクールな目がまんまるになる。

「そうだっけ?」

「そうだよ。一年の時から、ずっとつきあってるだろ」

「そうなんだ」

「そうなんだよ」

 ふふふふ。

 俺たちはとてもすっきりした気持ちで、素直に笑い合った

「あのさ、私、今の佐倉、いいと思う」

「いいって何が」

「あ……」

 桂木は唇を噛んで眉間にシワを寄せる。失敗した、って顔。
 ホームに電車が入って来て、桂木は俺の手からキャリーバッグを奪った。

「今のお前がすごい好きだってこと」

 そう言い捨てると、手を振って車両に乗り込む。言葉の意味を理解した時はもう、ドアが閉まりかけていた。

「桂木!」

 閉まったドアの向こうで、桂木は優しく微笑んでいる。

「ありがとう」

 今の状態を言葉にするなら、胸がいっぱい。こんなに誰かを愛おしいと思ったことはない。きっとこれが恋とか愛とかいうやつなんだろう。


「心のクリニック」の待合室は相変わらず真っ白で、受付のお姉さんも素敵な笑顔で対応してくれた。

「思ったよりも、いい顔色をしていますね。よかった」

 芝辰朗は、わざと冷静な態度をとることを止めたみたいだった。椅子の背もたれに寄りかかりながら、リラックスしているように見えた。
 芝は俺に昨日思い出した事を話させ、それについていくつか質問をした。俺は、意外と冷静に話せた事に少し驚く。思い出した時はまるで今経験しているように感じたのに、今はすでに昔の記憶に変わっていた。不思議なものだ。むしろ問題なのは、アレだ。

「マスターベーションが出来ない?」

「セックスも」

「欲求はあるのに、体が拒否反応……ですか」

 芝は腕を組んで俺を見る。

「心因性のものだと思いますが。原因となる出来事の記憶を閉じ込めても、受けた傷がそういう形で表面化してしまったのでしょう」

「ずっと欠陥だと思ってました。理不尽だ、公平じゃない。なんで俺だけ、ってそっちに対する不満が強かった。でも、今は、はっきりと嫌悪感を感じるんです。するのが怖い」

「嫌悪感は何に対して? 性的行為に?」

「その、たぶん、気持ちよくなることに対して、だと思います」

 あの男のよだれを垂らした姿を思い出すと、嫌悪感でいっぱいになる。体にかかった精液の感覚に鳥肌が立つ。

「あんな、汚らわしい行為を、俺はしたくない」

「汚らわしいのは、あの男がした行為です。本来の自慰行為や性行為はそうではないのでは?」

 確かにそうだ。でも、自分がマスターベーションすることを想像すると、怖くなる。

「昨日一緒に来ていた彼女はどうですか? 肌を合わせたいと思いませんか?」

「それは、思います。だけど、でも、怖い」

「拒否反応が起こる事がですか? やはり気持ち良くなることに?」

「拒否反応はキツイです。だから怖いです。でも、それよりも、やっぱり……」

 怖い。相手に触れたい。体温を感じ合いたい。だけど。

「射精するのが怖い。その瞬間、俺はあの男と同じになる」

 翌日、仕事が午前で終わった碧と午後から海に出た。シュノーケルとフィンを持って、また違う場所へ行って潜った。
 場所によって、海は少しずつ違う顔を見せた。海の揺らぎに身を任せ、音に浸され、碧の潜る優美な姿を見ると、幸福感に満たされる気がした。
 しかし、頭のどこかで、もう帰らなければ、とも思っていた。家に帰るタイミングが分からなくなっていた。芝とのカウセリングは、これからはメールか電話で続ける事になった。思ったより俺の状態が良かったらしい。
 良かったのか。良かったのか? 
 時間が必要なんじゃないか? と、碧は言う。
 俺もそう思う。
 今は、仕方がない。
 今は、今の感情を、状態を、素直に受け入れる努力をしなければならない。
 ただ、もう一人じゃない。碧だって、桂木だっている。
 その違いはかなり大きい。
 海で疲労した体を、庭のベンチに座って夜風に晒していると、父親から電話がかかってきた。芝ではない。熊みたいな方の父さんだ。土日に登山に行くが海斗も行くか、というお誘いだった。暑いのによく行くよな、と呆れながらやんわり断る。もうそろそろ帰るから、と言って切ろうとした時、父さんが呟くように言った。

「俺は、海斗と京子に感謝してるんだ」

「どうしたの? 急に」

「急じゃない。ずっと思ってる。言ってなかっただけだ」

「……そう」

「俺がバツイチなのは知ってるよな」

「うん」

「前の妻と離婚したのはな、子供が出来なかったからなんだ」

「……そう、なんだ」

「病院で調べたら、俺が原因だった。あれだ、精子がなかったんだ。まったく。不妊治療すれば可能性はあったかもしれないが、俺も妻も若かったから、それを機に気持ちがすれ違ってしまったんだな。子供子供言う妻に、子供より俺を見て欲しい、なんて思ってしまうような小さい男だったんだ。俺とは子供が作れないと悟った妻が、別れる決断をするのはまぁ早かった。気持ちいいくらいにな。おかげで俺も子供を作れないことだけ悔やめば良かった」

「うん」

「まぁつまり、俺に息子が出来たのは奇跡なんだよ。だからさ、感謝してるんだ」

「酔っぱらってんの?」

「少しな。でも、言いたかったんだ」

「……あのさ、山、丹沢でしょ。縦走すんの?」

「あぁ」

「もしかしてテント?」

「当たり前だろ」

「山小屋なら行こうかな」

「じゃぁ、来なくていい」

「チッ……。行くよ」

「気を使うなよ」

「いや、ちょっと話したい事があるから」

「……そうか」

「だから、明日帰る。でも、何時になるか分かんないから、俺の分も準備して」

「了解。ザック、チョー重くしておくからな」

「やめろよ、あ、くそっ」

 せっかちな父さんは話の途中でもさっさと電話を切ってしまう。

 明日、帰る事になった。

 なんだろう、父さんの突然の告白を聞いたら、何かがストンと落ちたんだ。
 庭の芝生に灯りを落としている窓から中を覗くと、エントランスで客と談笑している隆さんが見えた。その奥の棚の影に、片付けをしている碧の背中があった。
 明日帰る。俺はそれを言うために、ベンチから重たい体を苦労して引き離す。


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