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鉄のつばさ

紗耶の朝は、戦場のように騒がしい。
食卓でぐずる者。早々に朝食を食べ終わったかと思ったらリビングのおもちゃ箱にダッシュする者。もう家を出る時間が迫っているのに、パジャマのままで走り回る者。自由奔放に行動する3人の子どもたちから片時も目を離せず、紗耶は絶え間なく声をかけ続ける。この日は朝、テレビをつけたのがいけなかった。数日前にオープンした遊園地の特集に、3人の目が釘付けになった。
「みわ! こうじ! あやか! いい加減にしなさい!」
遊園地に行きたいと合唱し始めた3人をなだめすかし、やっとのことで着替えを済ませ、カバンを持たせ、靴を履かせて家を出た。動かないでねと3人を制しつつ、玄関にカギをかける。
保育園の送迎バスは、紗耶たちの家から10分くらい行ったところに停まる。5歳のみわはなんとか一人で歩けるが、4歳のこうじと3歳のあやかは、まだまだ一人で歩かせるのがおぼつかない。紗耶は大きなカバンをたすき掛けにして両手を空けて、いつも2人と手をつないでバス停まで向かう。
「きょうもくもりだね」
あやかの声に紗耶が空を見上げると、3人がいつも保育園からもらってくる再生紙のプリントのような灰色の空が広がっていた。傘を持たせるのを忘れた、取りに戻ろうかと一瞬思ったが、そんな時間も気力もない。まあ、大丈夫だろう。紗耶は傘のことを頭から追い出した。
「まあ大丈夫だろう」。この呪文が、離婚してからずっと紗耶を支えている。

会社に着くとすぐに、風間に呼ばれた。風間は、紗耶が営業事務として補佐をしている営業マンだ。最初に担当についてから、もう5年の付き合いになる。
「丸岡産業さんの棚卸しがあるから、紗耶さんもついてきて」
デスクにカバンを置く暇もなく、紗耶は風間の後を追って会社を出た。
「風間さんの運転嫌いなんですよ、荒いから。気をつけてくださいよ」
社有車の助手席でシートベルトを締めながら、紗耶が風間に釘を刺す。
「そうやって文句言ってるけど、ドライブ好きでしょ。よかったじゃん、海見えるよ」
案の定、急発進と急停止を繰り返しながら、風間が憎まれ口を叩く。
「曇りですけどね、今日。雨降りそう」
せっかくの海岸沿いのドライブも、曇っていては魅力が半減だ。紗耶は助手席から外を眺めながら、今朝の3人を思い出す。最近ずっと、不満そうな表情をしているのが気にかかっている。どこかに連れて行く暇がないわけではない。しかし、まだ幼い3人を大人一人で連れて長時間歩くことを考えるだけでどっと疲れてしまって、つい先延ばしにしてしまう自分がいた。
「風間さん、休みの日って、裕太くんとどこかに出かけてます?」
風間には、裕太という6歳の一人息子がいる。
「イオンとかよく行くね。最近飛行機が好きみたいで、空港に行ったりするかな」
「私、離婚してからどこも連れて行ってあげれてなくて」
紗耶が離婚したのは、半年前のこと。子ども3人を紗耶が引き取ることになったので、自宅も紗耶がもらい受けた。車については、無用の長物だからと夫に渡したのだった。3人にそれまでのように不自由ない暮らしをさせたくて、この半年、紗耶はずいぶん無茶をして働き詰めている。
「一緒にいてあげたいのに、仕事しないと生活できなくて。なんか泣きたくなります」
軽い口調に本心を乗せてみる。透明なガラスと鉄だけで外界と隔たっている密室した空間に気心の知れた人間と二人きりでいるのは、思いのほか気が楽だった。張り詰めていた気持ちが、ついほどけてしまう。 

やがて車は丸岡産業に着いた。だだっ広い駐車場の奥に、丸岡産業の建物がある。来客用の駐車場は敷地に入ってすぐのところにあるため、事務所の玄関まではかなり距離がある。紗耶と風間は車を降り、玄関に向かって歩き出した。
「車買ったら?」
リモコンで車にロックをかけようと振り返った風間が、ついでに紗耶を見た。車、と言われて紗耶は、離婚する前、よく家族5人でいろんなところに出かけたことを思い出した。
3人とも車で遠出をするのが大好きで、出かける前の日は興奮して眠れなくて、紗耶はいつも「早く寝なさい!」と3人を追いかけ回しては、リビングの隣にある寝室に子どもたちを放り込んだ。布団に入ったのを確認してから寝室の電気を消してリビングに戻るのだが、しばらくすると、寝室からクスクスと笑う3人の声が聞こえてくるのだった。
「車、やっぱりあるといいですかねえ」
今の経済状況で、車の維持費を払い続けるのはかなり大変だろうと思う。しかし一方で、もう少し頑張ればなんとかなるかも、という気持ちもある。きっと車がきたら、3人は大喜びするだろう。考えただけで、紗耶の頬がほころんだ。
「いろんなところに一緒に行けるよ」
つばさが生えたみたいに。風間が付け足す。はしゃぐ3人の笑い声と「まあ大丈夫だろう」という声が、追い風とともに聞こえた気がした。


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