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高濱虚子の「虹」をテキスト化してみた

最近、高濱虚子(1874~1959)の、それも俳句じゃなくて散文、小説を読んでるんですが、これがなかなか切なくていい。

で、青空文庫に出てないので、もっとも有名な「虹」を起こしてみました。パブリックドメイン入りしているので問題ないですね。底本は集英社「日本文学全集第17」。登場人物を整理すると、

・私:高濱虚子(きょし)。俳人。
・立子(たつこ):星野立子。虚子の次女。虚子は立子を高く買っていて、30代半ばになった立子の手帳に「私はあなたの生涯を見ることが出来ないことを残念に思う」とまで書いている
・柏翠(はくすい):伊藤柏翠。虚子の俳句の弟子。鎌倉の結核療養所で愛子と出会い、福井県の三国に帰った愛子を追って同棲する
・愛子:森田愛子。療養所で柏翠と出会い、俳句を教わる。虚子は美人聡明だった孫弟子を大変可愛がった。29歳で亡くなる。
・美佐尾(みさお):愛子の俳句仲間の女性。年上で離婚歴があり身体が大きい

愛子に関する小説は「虹」では終わらず、「愛居」「音楽は尚お続きおり」「小説は尚お続きおり」と続きます。全部読むと泣けたので、ひまな時間を見て起こします。そしていつか連作の解説をしてみようと思います。

虹 高濱虚子

 愛子はお母さんと柏翠と三人で、私と立子を敦賀まで送ると言った。それに及ばぬ、疲れているであろうから美佐尾といっしょに福井で降りて三国へ帰った方がよくはないかと言ったのであるが、しいて敦賀まで送ると言った。福井を過ぎると汽車もだいぶすいて、私らは片方に腰を掛け、その向い側には愛子とお母さんと柏翠とが腰を掛けた。
 愛子も柏翠も私らに別れともないようなそぶりが見えていた。私らはこれから芭蕉二百五十年忌法要に列席するため近江、京都、大阪、伊賀と旅行を続けるので、柏翠も同行したい容子(ようす)であったのだが、その健康が心配であったのでそれとなくこれを止(と)めた。愛子も柏翠と同じ病気でこの間もかわるがわる臥せっていたという話を私らは聞いていたのである。私は愛子の裏の二階で、九頭竜川の吹雪の壮観をぜひ見せたいということを言った時分に、そんな時電話を鎌倉にかけて、今吹雪がしていますと知らせてくれればいいではないか、と言ったら、それでは今度はそうしますと言ったことを思いだした。
 その時ふと見ると、ちょうど三国の方角に当って虹が立っているのが目にとまった。
「虹が立っている」
と私はそちらを指した。愛子も柏翠もお母さんも体をねじ向けてそちらを見た。それはきわめて鮮明な虹であった。その時愛子は独り言のように言った。
「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしましょう。今度虹がたった時に……」
 それは別に深い考えがあって言ったこととも覚えなかった。最前から多少感傷的になっているところに、美しい虹を見たために、そんなおとぎ噺みたようなことが口を衝いて出たものと思われた。私もそこに立っている虹を見ながら、その上を愛子が渡って行く姿を想像したりして、
「渡っていらっしゃい。杖でもついて」
「ええ杖をついて……」
 愛子は考え深そうに口を噤んだ。

 愛子とお母さんと柏翠とは敦賀で降りた。そうして私と立子との乗っている汽車がそのまま発車して京都へ向うのに淋しく手を振っていた。

 三国の町は九頭竜川に沿うてその河口まで帯のように長く延びている。昔の日本海を通る船はたいがいここに船繋りしたのだそうで、三国港といえばずいぶん殷賑を極めたものであったといわれる。最近まで絃歌の湧きたつ妓楼がたくさんあったそうである。今でも町を通ってみるとそれらしい家が軒を並べておるのが目につく。その九頭竜川に臨んだ寺に俳妓哥川の隠栖しておった寺があるが、そうしてそこの住職も永諦といって柏翠の俳句の弟子であるが、その近所の家に愛子とお母さんは住まっている。お父さんは別の大きな家に住まっていて、ときどきこのお母さんの家に来るのだそうである。私は、
 川下の娘(こ)の家を訪ふ春の水 虚子
という句を空想して作ったが、そのお父さんのいる本家というのは町の中央にあって、愛子の家がやはり川下であったことを後になって知った。
 はじめ金津で三国線と乗換えた時に、柏翠と愛子とが迎えに来ているのを人中に見出した。時雨日和であったので、その辺が薄暗く、藁頭巾というものをかぶった人が多い中に、それらの人々にもまれている二人の姿を見出した時は淋しかった。私らはここに来るまで、二人の健康が気にかかっていたのであるが、この時雨日和に三国からここまで私らを迎えに来ているのをまず心強く覚えたのであった。
 愛子の家の床脇に愛子によく似た一人の娘さんの大きな写真が飾ってあった。これは愛子の姉さんだそうであるが、若くして亡くなったということである。そのほかにまだ一人の兄さんがあったが、それも若い時分に亡くなったそうである。生きていたらばちょうど柏翠ぐらいの年輩であるとお母さんは話していた。今は親一人子一人で、愛子とお母さんと、それに最近は柏翠と、この三人が、互に頼り頼られて淋しい生活を営んでいるもののようにも見えた。
 以前柏翠が鎌倉の家へ来た時分に、
「このごろ、愛子と結婚しようかと思うこともあるのですが……」
と私の顔を見てから、
「二人とも体が悪いのですから……」
と言い澱んだ。私はしばらく考えてから、
「結婚してすぐ不幸な目に逢う人も多いようだから、まあよく考えてからにしたまえ」
と言った。そうして何だか、そんなことは言うべきことでないような心持もしたのであったが、柏翠は決然とした口調で、
「結婚しないことにしましょう。その方が結局二人の幸福ですから」
と言った。私は今まで私のいうことは何でも正直に守る柏翠であることを知っているので、柏翠のこの言葉に対して、惨酷(ざんこく)な申訳のないことを言ってしまったように覚えた。しかしそれをまた取消す気にもなれなかった。
 柏翠は鎌倉の七里ケ浜の鈴木病院に十年間も入院していた天涯孤独の人で、そこでやはり入院してきた愛子とも逢い、また愛子のお母さんとも心やすくなったのである。愛子が柏翠に俳句を学んだのはそのころである。その後愛子は三国に帰り、柏翠は鎌倉と三国を往来し、今は三国に滞留しているのである。

 金沢の俳句会のすんだ翌日、山中の温泉に行くことになって、その俳句会に列席した柏翠と愛子とお母さんと、また愛子の友だちの美佐尾もやはりいっしょに行くことになった。
 美佐尾というのは、愛子のお父さんが銀行の頭取をしていた時分にやはりその銀行の重役であった人の娘で、男子を凌ぐくらい立派な体格をしているのであるが、よそに嫁(か)して間もなく不幸にして一人の女の子を連れて里方に帰っておるのである。愛子よりは年上であるが、愛子の俳句の仲間でもあり、また病弱な愛子のために行届いた親切な友でもあった。
 その朝早く金沢の宿の廊下で愛子の姿を照らしだした電灯の光は暗かった。「よくおやすみでしたか」と聞くと「よくやすみました」と答えはしたが、顔色も悪く元気もなさそうに見えた。その傍に美佐尾の丈高い幅の広い姿も見えた。
 山中に着いた時は非常に寒かった。宿の前の山は一面に紅葉していたが、その全山の紅葉の上に雪がさらさらと降っていた。それが大変に美しかった。寒いのも忘れて、障子を開けて皆それを見ていた。一行は三十人ばかりであった。ハンケチで喉を巻いている愛子も人々に交ってその雪を見ていた。柏翠も襟巻に顔を埋めて同じく人々に交っていた。柏翠は時々咳をしていた。
 また一句会はじまった。金沢の俳句会の時もそうであったように、俳句を作らぬお母さんは、句会の間は愛子の後ろに隠れるように坐っていて、一座の邪魔にならぬようにつとめていた。

 その晩寒々とした広間に三十ばかりの膳が並べられて皆そこに坐った。それは温泉宿によく見る演芸場の一端であったが、その三十人ばかりの人が、片隅にちまちまとかたまって坐っていた。
 例のとおり主催者側の挨拶があってから、盃がまわるにつれてだいぶ皆饒舌になってきた。一座はざわめきたった。広間の一方にかたまっているように見えた三十人ばかりの人も今は座敷いっぱいにいるように思えてきた。愛子や柏翠はと見ると皆おとなしく箸を執っていた。美佐尾もお母さんもやはり汁椀を取り上げて顔を半ば隠していた。
 そのうち座を立って私や立子の前に来る人がだんだん殖えてきた。飲みすぎないようにと気をつけていたのではあるが、受けては返す盃が重なってくるのであった。その時私の後ろ脇に来て坐った一人の人があった。それは大阪の本田一杉(いっさん)であった。一杉は小松生れの人でちょうど用事があって帰国したら、私が今日この山中に来たという話が聞えたので、後を追ってきて最前の句会にも列席したのであった。だいぶ席が乱れはじめたころだったので、私の傍に来てこれも私に盃をすすめた。見ると一杉の顔もだいぶ酔がまわっているように見えた。その他人々の顔がたくさん私の前にあったが、それらの人も皆酔うているらしく、しきりに私に盃をさした。その時私の前に来て坐ったのはお母さんであった。
「お慰みに一つ唄わせてもらいましょう」
 そう言って謡いはじめた。さびた声で覚えず耳を傾けしめた。この人が三国で鳴らした名妓であったろうということはかねがね想像したところであるが、この俳句会の一行には今までは蔭に蔭にと身を置いて、あるかなきかの存在であったのである。それはそういう風に振舞っていることが尋常の人ではなかなかできぬことであろうと思われもしたのであるが、その人が今私の前に坐って、目の前に現れて、きちんと座を正して、唄を謡ってくれたということに私の胸は打たれた。「御立派ですね」と讃めることすらがこの人にはおかしいように思われて、私はただ黙って盃をさした。私はこの場合この思いもよらぬ座を引締めた芸の力というよりもこの思いもよらぬ私をもてなすための優れた芸に少し眼がしらが熱くなってくるのを覚えた。
 そのうち誰かがすすめたものであったか、またみずから進んでやったものか、お母さんは立上って踊りはじめた。それがまた立派な手ぶりであった。ここにもまた昔の名妓の面影を見ることができて、私の眼からは涙がこぼれ落ちるばかりになった。もとよりそれは酔が手伝ったためでもあった。
 その時ふと座を立ってそのお母さんの後ろに立ったのは愛子であった。それがまた踊るのであった。私はあのかぼそい弱々しい愛子がここに現れようとは予期しなかったので、たちまち胸にこみ上げてくるものがあった。
 私はついに涙があふれてきた。覚えずハンケチを取りだして歔欷(きょき)するのを人に見られまいとしたが、及ばなかった。たちまち声を放って泣いた。しばらく経って気がついてみると、私の傍にいた立子も泣いていた。遠くに坐っていた美佐尾も泣いていた。その他の人は皆七十の老翁が声を放って泣くのを怪げんな顔をして見つめていた。第一踊っていたお母さんや愛子は踊るのを止めて、それに柏翠も、心配そうに私の前に来て坐ったが、私はなお泣くのを止めぬために自分らの座に帰って静かに坐った。愛子はしばらく黙ってうつむいていたが、ついにハンケチを顔に当てて泣きはじめた。
 その時後ろに坐っていて声高に演説めいた口調で怒鳴りはじめたのは一杉であった。何を言っているのか充分に判らなかったが、ところどころ聞きとれたところを綜合してみると、それはこういう意味であるらしかった。とかく若い諸君は自分らのために先生を利用しようとして遠方まで引張りだす。それがために先生は泣くのである。諸君は慎まなければならぬ、とこういうことを繰り返して言っているようである。一人の若い幹事は畳の上に平蜘蛛のように手をついて、悪うございました、どうか御勘弁を願います、と私にあやまっていた。かかる騒々しい間も、愛子はなおハンケチを顔に当てたまま潸々(さめざめ)と泣いていた。私も泣くのを止め、立子も泣き止め、美佐尾も泣き止めたのであるがなおいつまでも泣き続けていた。
 私はなぜ泣いたのか、おそらくそれは酔い泣きというものであろう。昔、木賊(とくさ)の翁は、子を失いて信濃のそのはら山で木賊を刈り、道行く人をとめて、子に行き逢うことを望んでいたが、時には子を思うあまりに、盃を啣(ふく)んで酔い泣くことがあると謡曲にある。私が泣いたのはその木賊の翁の酔い泣きに似ているともいえるであろう。

 その夜立子と愛子と美佐尾とは温泉にはいった。裸になって湯壷にひたってみると、美佐尾はずばぬけて大きく、立子は小さかったが、愛子はさらにさらに小さかったといった。そうして美佐尾の乳房を愛子は赤ン坊のごとく吸う真似をしたと。これは立子がその後私に話したことであった。

 その翌朝は天気がよかったので皆打ち晴れた顔をして宿を出た。多くの人は北に別れて、私と立子と、愛子、お母さん、柏翠、美佐尾の六人は南下する汽車に乗った。
 美佐尾だけ福井で降りてまず三国に帰り、残る五人は敦賀に向ったのであった。

 その後私は小諸にいて、浅間の山にかけてすばらしい虹が立ったのを見たことがあった。私は愛子に葉書を書いた。

それには俳句を三つ認(したた)めた。

 浅間かけて虹のたちたる君知るや
 虹たちて忽ち君の在る如し
 虹消えて忽ち君の無き如し

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