筍取物語

(約1000文字)

20年かけた作品を見せてもらった。それは小屋だった。

 生きるのは煩わしい。一挙手一投足に至るまで生きていなければならない事を、今でも信じられない。
 私が寝ている間に、木は朽ち、鉄は錆び、竹林は地下から侵略してきて、虎杖 イタドリや葛は立っているもの全てを窒息させる。――こんな事はほんの一部で、“自然”はまるで大戦争だ。みんな全力で殴り合って生きている。生きることは暴力だ。うかうか寝ていたら呑み込まれてしまう。その脅迫観念にまた辟易する。
 田舎でロハスなスローライフとか言い出した奴は誰だ。ゴッサムシティや米花 ベイカ町の方がよっぽど秩序が保たれている。――都市ほど倫理的な生存秩序は無い。なのに何故こんなにも生き苦しいのだろう。

 ”植物ほど侵略的な生物は無い”。昔ロンドンのAAスクール Architectural Associationの学生から聞いた言葉を思い出した。建築という秩序、それと植物という無秩序。彼はその調和を目指して学んでいた。
 調和とは聞こえの良い言葉だ。支配こそ、生存の本質なのだろう。観葉植物や動物を飼う事は、――人工的な秩序の中に たなごころの無秩序を支配する喜びは、生存の実感なのかもしれない。
 暴力を細分化して手のひらの上で転がす方法を平和と呼ぶ。彼は平和を学んでいた。私は今その意義を肌身で感じていた――

 小屋の話に戻る。優雅とは言えないものの質実剛健なそれは、50歳ほどの男性が一人で建てたものだった。そこに収蔵された骨董品――楽器や演劇の機材といった品々は、彼の半生そのものだった。二度と使われるかどうかも怪しいそれらを守るために、今日は筍を採りに来たのだ。

 筍を採るのは食べるためではない、――というのは嘘で、私は単に食べるためだ。ついでに、――竹の爆発的な繁殖と侵略を抑制している。――これは本当。――わずか1年で十数メートルも一直線にグンと伸び上がる驚異的な生命力――暴力 パワーは、時に岩を持ち上げ床をも突き破る。そして伸びた竹を処分するのは本当に大変で、テニスコート半面の竹を伐れば、その残骸はコートの両面を覆うほどの嵩になって、何年も残り続ける。どちらにしろ、そこに人間の居場所はない。だから採るしかない。平和とは、生きるとは、筍を採る事だ。

 鍋がぐつぐつ言っている。相変わらず生きる事は億劫だ。だけど暴力を少しだけ美味しくして、生きる方法を教わった。


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