小説を書くにはどうしたらいいのか

 エッセイはしばらくもう書かないとか書きましたが、絶賛スランプ中で、なにをどうしたらいいのか分かんなくなってきたので、いったん頭の中を整理するためにも、やっぱりエッセイを書くことにしました。
 マジで無理。ありえんくらい書けない。ということで、題して「小説を書くにはどうしたらいいのか」というわけです。今から、小説を書くことを趣味とする一個体の生物の悩みを、ここに書き連ねていきたいと思います。

 そもそも、俺は他人の小説を読むときに、何を楽しみに読んでいるのだろう。多分答えは一つじゃない。言葉によって繰り出される超絶技巧、登場人物との悩みの共有とそのカタルシス、伏線回収の心地よさ、世界を見通すための新しい目――この様々な期待をくぐり抜けた、新感覚な出来事との出会い。
 様々が複雑に絡み合った情念でもって、僕らはその小説を読む。スリリングな対話に身を焦がす。アア――分かっちゃったぞ。いや、分からねえ――理解可能と不可能の間の揺らぎを、文字の海の中で揺蕩う。まさしく無重力体験――宇宙との邂逅。

 と、かっこよく並べてみたはいいものの、やっぱ一番に期待するのは「人との出会い」かなあって。その人との偶然的な出会い。多分この「出会い」はキーワードとして頭の中にずっとある。出会いとは――何か。

 ものすごく個人的な話をしたいと思います。僕は実は飲み会というものが好きで、誘われたら二つ返事でOKしてひょいひょいついていってしまうんですが、一方で僕、ああいう雑音の中では本当に耳が悪くって、一人ひとりの話していることが全く聞こえないんですよね。ガヤガヤ――的な。
 だから、僕は最初っから会話をすることを諦めて、「うんうん、そうだね」とか「たしかに」とか、まあ、9割以上の問いかけに対応できるような便利な相槌を打つようにしてるわけ。大体はうまくいく。でも、深刻な話(「今日嫌なことがあってさ……」など)に「へえ、すごい!」って返したときには冷や汗かいたわ。

 で、まあそういう感じで、ずっと便利な相槌をしているときには、名前すら覚えられないわけよ。自己紹介だって聞こえないんだから! だから、飲み会のとき、僕の目の前にいるのは、酒を飲む木偶人形みたいな。そんな感じでいつも接してるわけね。なんでそこまで悲惨な状況で飲み会を愛せるんだって感じか? そう、三回の内、二回はこんな感じなんだけれど、一回は別の「出来事」が起こるんだよね。

「ねえ、フヒハさんってさ、実は酒苦手でしょ」
「え?」
 隣を振り向くと、いつのまにか隣に座っていた人が入れ替わってて、なるほど、俺はそのとき水を飲んでて。しかも、はっきり声が聞こえるものだからびっくりしちゃって。まあ酒は苦手じゃないんだけれど、でも、確かに飲まないようにしていたから、こう、言い当てられた感じがしてドキッとしちゃったんだよね。
「いや、そういうわけじゃないんだけど、アハハ」
「え、笑うとこ?」
 ――まずい、これは「会話」だ。意味のあることを言わなきゃいけない奴だ。「アハハ」で対応できない奴。こうなったら僕は、水を飲む手を置いて、その人に向き合って喋らなければならない。耳の神経はそいつに全集中して、そいつの身振りや仕草、音、口の動き、その他ヒントになるものを念入りに観察して、相手の言葉を聞かなければならない。
 しかし、「酒苦手」という言葉に対する、僕の「素直な」返答を試みるには、実はかなり労力を要する。「まあ酒は苦手じゃないんだけれど」ってさっき書いたかもしれないけれど、実はめっちゃ好きなのだ。好きなんだけれど、でも飲み会ではあんまり飲まないようにしている。高いしさ。まずいし。それに飲み過ぎると頭痛くなるし。っていうか、俺めっちゃ酒癖が悪くて、しかも絡み酒なんだよね。多分根本的に寂しがり屋なんだとおもう。気を張って、だからこんな何もしゃべれないような飲み会に好き好んで参加して、誘ってくれる友達にOKと言わずにはいられないような感じで。っていう様々な情念が、僕がさっき置いた「水」には渦巻いてて。誰も見てないから、水でやり過ごそう的な。
 こんな感じで色んな感情があっての「水」だから、「酒苦手」と言われるとちょっと違うかなってなるんだよね。でも、こんなこといきなり喋ったら、なんか重くね? そういうわけで、僕は「今日は控えてるんだ!」って適当なことを言ってやり過ごす。十回のうち、一回はこのやり過ごしでなんとか落ち着く。しかし、このときは――

「へえ、変なやつ」

 マジでこんなこと言われるとめっちゃムカつくんだよね、なんなんだ、この飲み会で、人のパーソナリティを探るなって思うんだけれど、一方でなるほど、俺は変なやつだなあ、確かにと納得したから「確かに」って言ったら、「アハハ」と笑われてしまった。
 この「アハハ」が――なんかこう、心に残ってて、んで、そいつは無事、フェイスブックで連絡先を交換し、今でもたまに連絡を取っている。飲み会で適当に返事してたことはバレた。

 へえ、変なやつ――と言われた瞬間、木偶人形の集まりの一つだったその人間が、一人の「ムカつく奴」へと変貌する。色がついたって感じ。「アア、こいつは人に、「変なやつ」という人なのか」みたいな。その瞬間に、そいつの固有名詞が復活する。例えば、フェイスブック聞いてみようとかってなる。
 その「固有名詞の復活」の瞬間こそ――僕は「出会い」なのかなって思う。大抵はそれは、例えば男女の出会いの場合、「一目惚れ」になるわけだけど――だから、「出会い」を語るとき、人は初めて出会った場所を指し示したがるんだけど、僕は「固有名詞の復活」こそ大事にしたいというか。ずっと名前を覚えちゃう出来事に包まれた瞬間――それが「出会い」なのかなって。

 哲学者のホワイトヘッドの鍵概念に「出来事/客体」というものがある。出来事は一回限りのこと。それは、時間にも空間にも還元されない、言ってしまえばその場限りで起こったことという感じ。例えば、「私は千葉で車に轢かれた」とか。「私」が「車に轢かれる」ということは、例えば「僕」であってはいけないし、「千葉」が「神奈川」であってはいけない。また「そのとき」轢かれたのだ。時間と空間がくっついて離れない、その場のこと。それが「出来事」だ。
 一方で「客体」は、時間や空間に支配されないもの。例えば「車」そのものは例えば車がぐちゃぐちゃになっても、ぺしゃんこになっても変わらない。「壊れた車」となるだけで、「車」そのものは変化を被らない。この「車」をホワイトヘッドは「客体」と名指す。彼によれば、「出来事」と「客体」はお互いに不可分であり、「出来事」が「客体」を呼び込み、「客体」は「出来事」を語らせる。
 それで――科学は「客体」を取り扱う学問だと言う。様々な「概念」や、客観的に分析された現象を操作し、仮説を立て、実験を遂行していく。一方でじゃあ、「出来事」はなにが取り扱うのか。

 何で読んだか忘れてしまったんだけれど――その筆者はふと、じょうろの中を覗きこんで、その中に張っていた水面に、ボウフラが浮いていたのを見たらしい。文学は――そのボウフラを記述することではないか、みたいな。ボウフラを見たときのやるせなさとか気持ち悪さとか、一方で得も言われぬ美しさというか、そういう複雑な情念をすくいとること――これこそ文学の使命ではないか――みたいなことを書いていた。
 この話を、僕はずっとおもしろいなあって感じで覚えてて、小説を書くときも結構ひっかかって頭から離れないんだけれど、もしかしたら文学こそ「出来事」を取り扱うべき学問なのかなあって今漠然と考えた。

「飲み会」で「人間」と「酒」を「飲む」。これは限りなく「客体」だ。誰でもできる。酒場に行って飲み会すればいいだけ。いつでもできるし、どんな酒を飲んでもいい。
 だけど、例えばさっきの「へえ、変なやつ」という言葉は、その日限りのことだ。マジでムカついたけど、この「ムカつき」も多分、あの日だからこそ。だから、それは限りなく「出来事」に近いし、僕はその一回限りの「出来事」を覚えている。

 そして「出来事」に直面したとき、多分人は何かに「出会う」んだと思う。僕はだから、そいつと出会った。「出来事」は――「出会う」に密接に結びついている気がする。一回限りのこと――これこそが、そのことの「固有名詞の復活」を呼び起こすに違いない。
 だから――小説は、できるだけ「出来事」を書いているものが望ましいのではないか。出来事を描いて、読者と「固有名詞の復活」を共有できるような小説が、やっぱりおもしろいんじゃないかって思う。

 だから――小説を書くとき、この「出来事」を意識できれば、もしかしたらいいのではないか――というわけだ。
 例えば「朝起きた」という表現を用いたいとき、人間は一日の初めに必ず「起きる」わけなんだけれど、その起きる――例えば2020年7月13日の「起きる」は、きっと12日の起きるとは違うわけで。時間とか、天気とか、多分その人の心情とか、どうやって起きたかとか、あるいはどうやって寝たかとか――一回性が常にある。「朝起きた」は限りなく客体っぽい記述だけれど、「客体」と「出来事」は不可分であり、それは「出来事」なのだ。だから――その出来事を暴かなければならない。小説は、そういう営みであるべきなのかもしれない。

 そうか、出来事を書けばいいのか――またエッセイ書こ笑

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