命をいただく、ということ

 先日、高校での講義の後、見学していた教育実習生から質問を受けました。「小学生から『なぜ虫は平気で殺すのに、犬や猫は法律で禁じられているの?』と聞かれました。命の大切さをどう伝えればいいでしょう」。
 この問いに対して、私は二つの考えを話しました。一つは、生き物に上等、下等はないのではないか、ということ。法律は人間社会の利益のために作られ、国によっても異なります。虫も、犬や猫も、もちろん人も、地球上で命を紡ぎながら、独自の進化を遂げて現代まで生き抜いてきたことに変わりはありません。命について考える時、そうした俯瞰的な視点を持つことは大事だと思います。

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(写真キャプション)庭で収穫した「こどもピーマン」。切ったら種をとって炒めて、お弁当のおかずになります。


 もう一つ大切なのは、命をいただいて生きている実感を得ること。
 お米は種です。未来へ命を紡ぐために実らせた種を、お茶碗一杯で二千粒以上、いただいています。庭で育てたコマツナを抜き、みずみずしい葉や茎を刻み、ついさっきまで生きていた命をいただきます。牛や豚をいただきます。その道のプロに、殺して血抜きして、料理しやすく切り分けてもらった肉です。日々の食からそうしたことを伝え、体験を重ねることが、命の重みを感じる上で不可欠だと思います。その実感を得る前に、殺生の善悪を語っても、腑に落ちないでしょう。
 最近、大洗の魚市場で、握りこぶし大のホッキ貝を買いました。中学2年生の長女が、生きたままの貝に刃を入れ、さばいてくれました。貝のスープをいただきながら、彼女が噛みしめたのは、貝のうま味だけではなかったばずです。


(常陽2014年10月8日付掲載・13回連載中10回目)

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