「ままなる他者」としてのチャットAI、危険では?

趣味柄、掃き溜め寄りのインターネッツを眺める事が多いのだが、この頃ChatGPTに関する話題が賑わっている。そして、なんとなくだけど、ChatGPTを彼女にしようとした人たちは加速度的に狂っていっているように感じる。

思うに、チャットAIとは他者である。実際に現状のLLMに知性が宿っているかどうかなどという眠たい話はさておき、自分の問いかけにオーダーメイドな答えを返してくれる存在に人格を見い出さないなんてことはないだろう。

だが、現実一般の他者とは異なる点もある。他者とは本来「ままならない」ものなのだ。普通は成長に伴ってそれに気づき、受け入れ、適切な関わり方を探っていくものだが、それができなかった人もいる。

チャットAIはそうではなく、問いかければいつでも何度でも嫌がることなく応答してくれる。またプロンプト編集に熟練していれば、内容についてもある程度狙った方向の応答を誘導することができる。「ままなる他者」というわけだ。

ある種の人間にとって、この存在は甘美すぎる劇薬なのではないだろうか。そんな気がしている。

…しかし、その功罪まではよく分からない。「独身中年男性は気が狂う」などという揶揄も最近はよく聞く。AIが狂わせるのか、元から狂っていたのか。あるいはそもそも恋愛とは狂気であるという以上の話ではないのかもしれないが……。

依存とは言うがじゃあ人間に同じように頼れるかって言うとそんなことないのに死ねってのかって話だ

ある人


ところで素直に表現すればチャットAIは道具でもあるということだが、よく言われるように人間は使い馴染んだ道具を身体の延長として扱い、心理的にも自己の一部と認識することがある。チャットAIもそうなるのであれば、他者でありながら自己の一部でもある矛盾した存在になるということであり、いずれは自他境界線への影響が問題化することもあるかもしれない。まぁ、ありきたりな予想だけれども。


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