人を理解することと自分を知ること;『春にして君を離れ』を読んで

ちょっと語りたくなってしまう本を読んだので、熱が冷めないうちにメモ代わりの感想を書く。

アガサ・クリスティーはこれを恋愛小説のくくりに入れたらしいけど、これ恋愛小説かな?(ある種の愛の話ではあるかもしれない。)
内容はミステリーではないけれど、徐々に色々なことが明るみなっていくという点ではミステリー仕立てといえる。そして読後感はひどく哀しい。

あらすじと主人公ジョーンの人間像

あらすじ
主人公のジョーンは自分の生活に満足していたが、バグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った学友ブランチとの会話から、今までの家族関係に疑問を抱き始める。

模範的、義務、平和、成功。ジョーンの世界を彩るのはそんな言葉ばかりだ。そしてそれらは全て、目の前の真実から逃げてきた結果なのである。
聖アン女学院を卒業しているジョーンは、卒業前の個人面接で校長のギルビー先生からこのような忠告を受ける。

「安易な考え方をしてはなりませんよ……手っ取り早いから、苦痛を回避できるからといって……いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません。自分のことばかり考えずに、ほかの人のこともお考えなさい。そして責任をとることを恐れてはいけません」

普段当たり前のように使っていたけれど、自己満足は心理学用語のひとつなのね。
これは人間が行動を行った場合に、その行った行動に対して自分自身が満足をするようなもののことを言い、 ここで自分自身が満足しているのは、客観的評価に関係なくされているということである。

相手の気持ちを考えず、自分が良かれと思ってした行動をすべて自己肯定する。それがジョーンだ。
彼女の世界には驚くほど他人の存在がない。家族も友人も彼女が想像できる範囲内での解釈がなされて、誰も彼女の世界に影響を及ぼさない。まるっきり自己完結した世界だ。
道徳的に正しいことだけ、正論だけを言っていれば、そりゃ非難はされない。誰も文句のつけようもない。いわゆる「世間一般ではそう言われている」ことだけを言い、実行していれば、自分は責任をとることもない。だって「みんながそう言って、やっていること」なんだから。(本当はそういうことでもやったことに対しては自分で責任をとらなければならないのだけど)

ジョーンと家族関係

彼女の考える幸せの形に、家族(とくに夫であるロドニー)がはめ込まれていく。彼はやりたいと思っていた農場の仕事を、ジョーンに反対され家業である弁護士になるのだ。もちろんジョーンの言い分にも理はあった。子どもが生まれて、彼らに親として与えられるだけのものを与えたい。そのためには不安定な農場経営につくより、確実にお金の稼げる弁護士になるほうがいいに決まっている、というジョーンの言い分だ。ロドニーは自分が弁護士に向いていないことを知りながら、強く反論せずにジョーンの言い分に従った。
ロドニーはある意味ではジョーンの被害者であるが、もう一方の意味ではジョーンの世界観を強化する一端を担ってしまっている。

そして自己満足と同時に、ジョーンにはステレオタイプという特徴がある。
世間一般が幸福であろうと考える選択をし、模範的であると思われる行動をする。そこにジョーンのジョーンらしさはない。ジョーンの人生はびっくりするほど「どこにでもよくあるもの」で彼女自身それに満足しきっているのだ。
この独善的な自己満足のほとんどが、ジョーンの家族に影響を及ぼす。

長女のエイヴラルは年上の医師ルパートとの不倫を、ジョーンから頭ごなしに否定される。不道徳、破廉恥、汚らわしい愛、ジョーンの口から出てくるのはそういう言葉だ。
ジョーンは愛の情熱というものを知らない。なぜなら恋愛は、自分を知り他人を知ることだからだ。あるときは自分のなかの欲望に驚き、相手の眼差しから自分を客観的に見つめ、合わせ鏡のように自分や相手を見たりする。相手の行動、ちょっとした仕草、声色、そういったものを見逃さずに正しく解釈して相手に寄り添おうとする。
そういったことをジョーンはやらずに安易な自己満足で相手に対してきたから、愛のやり方というか技術を知らないしわからない。
この顛末はロドニーによるエイヴラルの説得で幕を閉じたが、その内容がまた悲しいものだった。ロドニーはエイヴラルに言う。
「自分の望む仕事につけない男は、男であって男でないと、ぼくは断言する。もしきみがルパートを彼の仕事から引き離し、その仕事の継続を不可能にさせるならば、他日きみは必ず、きみの愛する男が不幸せな、失意の状態に喘ぐのを見て、どうしようもなく苦しまねばならないとね。」
「ぼくのいうことが正しいということがなぜわかるというのか?自分の経験として知っているからだよ。」
前半は、ルパートの医師としての公の仕事は私ごとから影響を受ける、ということからきている。ロドニーは自分の経験を担保にエイヴラルを説得したのだ。そしてエイヴラルは、自分の今後の選択によっては、愛するルパートが父と同じ苦しみを味わうことになるということを理解したのである。

ロドニーの結婚観とジョーン

もうひとつ、ロドニーは結婚という契約についても述べている。
「ぼくは結婚とは一つの契約だといいたいんだよ」
「何か不測のことが起こった場合にも、相手を飽くまでも見捨てない、結婚とはそういう契約なのだ」
「彼はそのとき、貧困とか、病気とか、その他さまざまなことの起こり得る可能性を予期し、しかもそれらも二人の結びつきの永続性に、何ら障碍となるものではないと明言したのだよ」
ロドニーが最初からこういう結婚観をもっていたとは思えない。多分弁護士をしている過程で身につけた考えのような気がする。町の弁護士なら小さな民事がたくさんあって、ロドニーの人当たりの良さなら夫婦間のいざこざなんかが積極的に回されてそうだ。
それはそれとして、ロドニーは結婚という契約のなかで、義務としてジョーンを愛していることがこの台詞からわかる。
作中でロドニーはレスリーという既婚女性に、近づくことが躊躇われるほど憧れる。夫が横領で逮捕され、子どもたちにそのことを正直告げると答えるレスリーの選択を、正しいこととは思えないながらも、ロドニーはレスリーの勇気に感嘆してそれを称える。父親が前科者だということは、子どもたち自身にとっては全く罪がない。それにもかかわらずきっと子どもたちはそのことで白い目で見られるだろう。しかし父親が前科者であるという事実は決して消し去ることはできないし、子どもたちはそのことを受け入れることからしかスタートできないのだ。レスリーはそのことを知っていたし、子どもたちと共にそれを受け入れることを選んだ。
「現実に存在するものから逃避することが、人生の公正なスタートといえるでしょうか?」
そうレスリーは言う。それはレスリーの子どもたちに対する最大の愛だったと思う。子どもたちを人格ある人間として扱いながらも、ちゃんと彼らを保護する覚悟もレスリーにはあったに違いない。その勇気にロドニーは惹かれたのだ。自分自身にはそれほどの勇気はない。
そしてレスリーの持っている勇気は、ジョーンに一番欠けているものでもあった。なおかつジョーンは勇気を低く見積もり「勇気がすべてじゃありませんわ」と言ってのけるのだ。

ジョーンの「人間性」

はたしてジョーンの考える勇気とロドニーの考える勇気は同じものだったのだろうか。
ここで使われる「勇気」という単語が意味するところは「真実と向き合うこと」と言い換えられる。「自分に責任を持ち現実に耐えること」と言ってもいい。少なくともロドニーはそういう意味で発言している。
しかし自分にとって都合の悪い事実に目をつむり、上滑りの現実を生きているジョーンにとっては、その上滑りの現実こそが彼女の現実である。そこには「真実と向き合うこと」も「自分に責任を持つこと」も含まれてはいない。平穏無事に過ごしてきたと思い、現状に満足しているジョーンが、ロドニーのいう「勇気」を理解しているとは思えないし、その価値を低くみるのも仕方がないのかもしれない。なんたって「勇気」なんかなくても「うまくやって」きていたのだから。
最後までこの本を読んで思ったのが、ジョーンという人間にはあまりにも「人間らしさ」が欠けているということだった。
社会の求める型からはみ出したところが個人のもつ個性であるとするならば、ジョーンにはそのはみ出たところが見つからない。てきぱきと家の采配をこなし、コミュニティへの参加も模範的。彼女の選択と行動は、常に規範に従い、マジョリティに属する。
自分に係る人間が何を考えていようと、彼女のやることは変わらないし左右されない。決まりきったプログラムに沿って活動しているのである。だからコックがいい仕事をしたときは何も言わず、ミスをしたときには小言をいう。プログラムは、うまく動いているときは何も言わず、エラーが出たときにはメッセージが出るものだからである。
自分自身を型に嵌めるのと同じように、周囲の人間も型に嵌める。ジョーンから見れば、型からはみ出た生き方をした人間は全て「憐れむべき存在」である。
そして、ロドニーは「弁護士をしている夫」でエイヴラルは「成人して嫁いでいった自分の娘」である。そこにあるのはただの属性で、ジョーンはそれぞれの個人がどういう人間なのかを考慮しない。

そして一度は、帰国の足止めをくらった砂漠で、彼女は自分がこれまで犯してきた罪に気づいて、それを悔い改める決意をするのであるが、慣れ親しんだイギリスに戻ってくるなり、以前のジョーンに戻ってしまうのである。

結局、人は変われるとも言えるし変われないとも言えるが、周囲の警告を無視せず、自分自身でそれに気づいて恐れずに自分を改めなければいけない。
それとともに、常に自分自身に問いかけなくてはならない。安易な選択に流されず、自分で考え、人間として行動しているかどうかを。

余談
それにしてもジョーンのように完全に自己完結した世界で生きている人間が道徳的でなかった場合、ストーカーのように自己の欲望を満たそうとするので、ある意味ジョーンは家族以外には無害でよかった。世間的には彼女は一般的なことしか言わない居ても居なくてもよい代わりのきく存在なのだし。(ひどい)

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