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イシュマエル・ノヴォーク『セヴ』を読んで(ネタバレあり)

注意:この記事は『セヴ』のネタバレを含んでいます!
ネタバレがダメって人はまずは『セヴ』を読んでから!

SFを読むのが好きだ。
SFの世界は、現実の一部分を誇張して、或いはまったくなかったことにして、わたしたちの今いる現実との差を突きつけてくる。

だからSFは、わたしたちがそれぞれ抱えている現実の写し鏡でもある。
『セヴ』を読んで私が見たのは、「道具として扱われる人間」だった。

物語はアルマンとセヴの会話によって紡がれていく。ふたりはそれぞれの時間を別々に過ごし、1年あるいは2年に一度短い会話を交わしたのち、再び互いの生活に戻る。だから、ふたりの関係は時間によって構築されるわけではない。

アルマンはロボットを嫌っている。アンドロイドのこともロボットと言ったり、糞アンドロイドと呼んだりする。
ロボットは、チェコ語で強制労働者を意味するrobotnikと強制労働を意味するrobotaなどに由来する。そしてアンドロイドはandro(男性)とoid(もどき)を合わせた造語で、ヒューマノイド(Humanoid)と同じく「人間型のロボット」を指す。
ただ単純に機械的に仕事をするロボットと人間とをアルマンは区別しようとするが、彼がそれをはっきりと区別しようとするのは、彼自身の仕事がロボットにでも代替可能であることがうっすらとわかっているからである。
10歳から生きるために働き、企業軍人だった過去もあるアルマンは、前線の兵士が使い捨てであることを身をもって知ったはずだ。会社に言われるままにアンドロイド反乱の鎮圧に赴き四肢を失ったときも、会社はアルマンに対して損害賠償と引き換えに「機械の手足」を与えた。アルマンが文句の言わない替えのきく作業員であるなら、当然彼の肉体も替えのきくものでなくてはならないからだ。

アルマンがロボットと区別しようとしている人間というものの社会が、人間をよりロボットのように扱うのは皮肉なことである。

対するセヴは、アンドロイドであるがゆえに人間に対して紳士的である。そして本を読んだり映画をみたりすることで、人類の文化から人間を学習している。

アルマンのロボット(労働)的な生きかたと、セヴの文化的な過ごしかたは対照的だ。植物の成長をゆっくり楽しむということも、アンドロイドのセヴにはできるが、人間のアルマンにはもはやつまらない面白くないことになっている。

ただ、アルマン自身は人間らしく生きたいと思っている人間だった。
家族を大切にし、たとえ相手がアンドロイドだとしても情にはあつい。そして脳みそ以外を機械化して生き延びる方法があったにもかかわらず、今の「自分」を失わないために人間として死んだ。

” どんなことにも、最後は人の手が必要なんだよ ”
セヴは言い、アルマンも同意した。アルマンは会社から道具のように扱われていたけれど、家族がいて「道具としてではない自分」がいることをちゃんと知っていた。アルマンにとって、自分の人間らしさを受け止めてくれる「人の手」は家族だったんだろうと思う。

じゃあセヴの考える「人の手」はなんだったんだろう?
彼はアンドロイドとしての役目を果たせず、本物のセブ・ヴィーゼルを死なせてしまった。どこかにいたかもしれない、彼を救えた人間のことだろうか。それとも、特に問題も起こさずに仕事をしていたセヴに対して、わざわざ引き金をひきにきた人間のことだったろうか。

” どんなことにも、最後は人の手が必要なんだよ ”
そう言ったとき、セヴ自身は自分の最後を予測なんてしていなかっただろう。彼のドームでの過ごしかたは、とても人間的だった。日々仕事をするロボットたちを管理し、彼らに愛着を覚え、本を読み映画を見て、植物を育ててそれに名前をつける。でもそのセヴの様子を知っていたアルマンはいなくなり、セヴは道具として人間に壊された。
アンドロイドは人間に歯向かうようにはできていない。セヴは抵抗しなかった。彼自身が理解できずにいる「運命」に任せたとも言える。

わたしたちはセヴにもアルマンにも、どちらも感情移入できる。生きて、諦めて、悪態をついて、おしゃべりをして、生きて生きて、そして死ぬ。そういうことの積み重ねが人生なのかもしれないと思ったり、そうじゃないと否定してみたり。

わたしたちの感情は「道具として」生きることを拒否している。
わたしたちは壊すための人の手でなく、生かすための、創るための人の手でいたい。

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