【フィールドノート/東海地方】浜松・豊橋へ、初めての旅(その2)
翌日は豊橋へ
旅の二日目。5時半頃に目が覚めてしまい、今朝行く浜松城は何時に開城なのだろうかと調べてみると、8時半という……。城内にスターバックスがあることが分かったが、それも8時オープンだ。仕方ないので外観見学にしよう。
7時半すぎにホテルを出た。引間城という古城址を訪ね、家康・秀吉の銅像とスリーショット写真を撮り、スタバの前を通って、復元された天守閣を見に行く。ざっくり積まれた高い石垣が、いにしえの浜松城をしのばせた。
駅に行き、電車で豊橋へ。逆方向の通勤者が多そうだから、この電車は空いている。車両が特急車両で、ちょっと驚く。
豊橋市。浜松同様、初めて来る街。駅前のデッキから街を見渡す。戦前の『日本案内記』には、昭和初期の浜松市の人口は約9万人、豊橋市は約7万人とある。片や遠州、片や三河だが、東海に並び立つ繁華な街に思える。
駅前から街中に入り、広小路を歩いてみる。名前からして、昔は目抜き通りだったのかも知れないが、余り賑わっている様子がない。交差点には3、4階建ての商業ビルがあるが、どれも1960、70年代ぐらいの竣工と思わせた。よくいえばレトロビルだが、半世紀もの間、建て替わっていないともいえる。かつて浜松に伍した豊橋の印象は、現在はかなり水を開けられている、というものだ。
豊橋市公会堂と吉田城址
広い通りには路面電車が走っている。その道を渡り、城址の方へ向かう。すると、視線の奥に近代建築が見えてきた。あぁ、そうだった、これが豊橋市公会堂か、と気付いた。この建物は、業界では有名というか、近代の公会堂建築を代表する建物のひとつであり、東海地方でも特徴のある近代建築として知られている。昭和6年(1931)に完成し、設計は中村與資平(よしへい)。昨日見た浜松の静岡銀行の設計者である。左右の塔屋にドームを付け、正面入口の5連アーチやロンバルディアバンドをはじめ、クリーム色に仕上げられた外観はロマネスクの印象を強く与える。塔屋には羽根を広げたワシがとまっており、こういう自由な感じがいい。
公会堂の背後には、城址公園がある。ここにあった城は吉田城。つまり江戸時代、ここには吉田藩があった。恥ずかしいけれど、実は昨日まで吉田藩の存在を知らなかった。新居の関所で、その管理を任されていたのが吉田藩だと知り、それが現在の豊橋に藩庁を置いていたことを知った。東海道の宿駅ではここは吉田宿で、豊橋という市名は明治維新後に採用されたそうだ。
「軍都」の歩兵第十八聯隊
城址公園―正しくは豊橋公園という―の入口に近付くと、ここでも目に付くものがあった。コンクリート製の、人が一人ぐらいは入れそうなボックスがある。すぐに、ぴんと来た。立哨する兵士のボックスだ。そう思うと、入口の門柱も時代掛かっている。ここにかつて軍隊が置かれていたことは間違いないように思われた。
入ったところに城址を説明する案内板があったが、その横には「歩兵第十八聯隊(豊橋市今橋町・豊橋公園)」と書かれた案内板が立っていた。そこには、次のように記されている。 ※聯隊(れんたい)=連隊
歩兵第十八聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設が進められました。明治18年(1885)には大半ができ上がり、明治20年(1887)5月までには移駐が完了しました。現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所のあたりがその場所になります。戦後、施設の多くは取り壊されましたが、門や哨舎・弾薬庫・灰捨場・碑などにわずかに往時をしのぶことができます。
豊橋市教育委員会が設置した案内板には、そんな解説とともに、現在と過去の地図や残されている遺構の写真などが掲載されている。その案内に従って、時間の関係もあるので弾薬庫だけを見に行った。案内にはない、埋もれた煉瓦造の構造物などもあった。
かつて豊橋が、浜松と並ぶ大都市だったのは「軍都」だったからだ。そのことを示す遺跡が、この城址公園というわけである。そして、このあと訪ねた博物館で、そのことをより詳しく知るのだった。
豊橋市美術博物館
戦争の遺址を見ていた茂みから公園の広場に出ると、向こうに博物館らしき建物が見えた。豊橋市美術博物館。長く学芸員をやっていたくせに、旅先で博物館に入る趣味がない自分なのだが、珍しく引き寄せられるように玄関に歩いていった。そこには、「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」という特別展の看板が立っていた。えらいローカルな鉄道の話やなぁと思いながらも、博物館の中に吸い込まれていく。
特別展示室は2階だった。チケットを買って、地元の人たちと一緒に展覧会を見た。最初の部屋には、古い写真や地図や絵葉書が陳列されていた。近代の豊橋の発展を示す展示は、軍都の歩みを語るものでもあった。
吉田城の南側に東海道の宿駅として広がっていた江戸時代の市街。明治維新後、案内板にあったように、明治20年(1887)までに歩兵聯隊の移駐が終わった。その翌年、市街地から離れた場所に豊橋駅が開設された。そして、駅と城方面を結ぶ電車も走り始めた。これに加えて、明治41年(1908)には第十五師団も移駐した。これはさらに南側のエリアで(現在の愛知大学などがある場所)、そこへも電車が敷設された。豊橋の街は、軍隊が来ることによって大きくなっていき、大勢の兵隊が駐留し、そのことによって経済も潤った。展覧会の図録には「(第十五師団の)人員は約1万人とされ、兵士等の消費する物資などの供給が豊橋の経済活動を大きく支えた」と記されている。そして、昭和初期には人口7万人の東海地方を代表する都市のひとつになった。
市電とうなぎ
1階のショップで、豊橋市電の駅名標をモチーフにしたキーホルダーを記念に買い、博物館をあとにした。そのあと、公園の北西にある復元された隅櫓を見学した。上階からは大きく曲がりながら流れる豊川が望めた。
公園の前には市電が走っている。展覧会を見た勢いで乗車することにした。昔、京都市電に馴染んだ自分からみると少々派手めの電車がやってきて、それに乗り込むと駅まではすぐだった。キーホルダーと同じ「駅前大通」の停留所で降りて、駅まで歩いた。ここで昼食をとるつもりだ。
昨日浜松でうなぎを食い逃していたので、頭にはうなぎしかなかった。駅の脇に古びた町の食堂があり、実にいい感じだった。看板にある鰻丼の値段は安くはなかったが、せっかくだからと戸を開けてみた。しかし、昼時で満席だった。
もう1軒、駅のデッキから見えていた店があったので、道路を渡ってそちらへ行く。Hという、うなぎ店だった。鰻丼と瓶ビールを頼み、まず突き出しをアテにビールを飲む。うなぎも本場ということだろう、柔らかでおいしかった。
旅の終わりは特急で
豊橋駅からJRで帰ることもできたが、せっかく愛知に来たのだからと名鉄特急に乗ることにした。奮発して特別車の切符を買ったが車内はがらがらで、少し酔いが回ったせいか、終点の岐阜に着くころには眠りに落ちていた。
岐阜からJRに乗り、大垣で乗り換える。休暇の人たちがホームにあふれていた。なんとか座れたが、車内が妙に蒸し暑くてげんなりした。米原を前にして、また満員の新快速に乗るのも辛いなぁと思い、予定はしていなかったが新幹線に乗ることにする。幸い、少し遅れてやってきた「ひかり」をつかまえることができた。
その週末は飲み会で、メンバーに浜松で買ってきた「うなぎパイ」を渡した。昔はそんなことはしなかったのだが、少し歳を取って「気を遣う」ということを自分も覚えたのかな、と思いながら酒杯を傾けた。