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ハドソン新人時代

ハドソンに入社した初日。
私はいきなり、営業部に配属されてしまいました。

もともと堀井雄二さんに憧れてゲーム業界を目指したため
当然、開発部を志望していたのですが
面接の際、副社長から「もし営業に配属されたらどうする?」と聞かれ
「社命であれば、従います」と言ってしまったため
その通りになってしまったのだと思います。

午前中ずっと、営業部で扱っている“bee-r5”という機械のカタログを見ながら「これはまずいことになった」と悩んでいると、営業部のボスがやってきて「新人! 社長に挨拶しに行くぞ!」と言われ、社長室に行きました。

そこで社長に「大学で日本文学を専攻していました」と自己紹介をしたところ、急に社長から「そうか! だったら江戸プロジェクトに入れ!」と言われました。
当時、社長は江戸を舞台にしたRPGを企画していたのです。

営業部のボスからは「余計なこと言いやがって!」とすごく怒られたのですが、この社長の鶴の一声で、私の営業部としての仕事は半日で終わり
志望していた開発部に入れたのでラッキーでした。

この江戸プロジェクトは、今考えるとシェンムーの江戸版のような画期的な企画でした。しかし、我々の理解が追いつかなかったため、なかなか形にならずにいました。
その後「コブラ」が忙しくなってきたため、メンバー全員が札幌本社に転勤になり、そのまま私も、札幌の開発部でゲームを作り続けることになります。

あのとき「日本文学を専攻していました」と言わなければ
私はずっと営業部で働いていたかもしれません。

しかも、この日本文学専攻も、たまたま入ったというか……
もともとは英文学専攻に入りたかったのですが、専攻を決める日に寝坊をしてしまい、英文学が定員オーバーしてしまったため、仕方なく日本文学を選んだのです。

私は普段、寝坊をするようなことはほとんどないのですが
この件に関しては、本当に寝坊して良かったと思っています。


寝坊の話をもうひとつ。
私が就職活動をしていた32年前のことです。

「ゲーム業界で働きたい」という私を、親戚中が反対しました。

「子供の遊ぶ“ピコピコ”だろ?」
「今はブームかもしれないけど、そんなのすぐに終わる」
「男子の一生の仕事じゃない」

ハドソンという会社自体、周囲の人たちにとっては無名の会社でしかなく
大学で就職相談をした職員さんすら、その社名を知りませんでした。

「後楽園球場(当時)の目立つ場所に、会社の広告を出してます」
私がこう説明してようやく
「だったら、それなりに儲かっている会社なのかもしれない」
……と、ある程度納得してくれたくらいです。

それでも納得してくれない親戚のおばさんから
「朝日新聞にコネがあるから、とりあえず受けてほしい」と言われ
まぁ、受かるわけないだろうとOKしたのですが
そのコネが予想以上に強力だったらしく、試験前に本社に呼ばれ
役員のような方とお会いしました。

その人の印象が良かったため、私も前向きに試験に臨もうと思ったのですが
試験当日、思いっ切り寝坊してしまい、気が付いたら昼過ぎでした。

結局、受験を諦めて行かなかったのですが、夕方になっておばさんから
電話がかかってきて「顔を潰された」と、ものすごく怒られました。

この日寝坊しなかったら、朝日新聞に受かっていたのか?
それは分かりません。ただ、大学の四年間で、大きな寝坊をしたのは
記憶している限り2回だけで、その2回とも自分の進路に関わる寝坊だったので、今思い返しても、なんだか不思議な気持ちです。


ついでに、もうひとつ32年前の就職活動の話を……

「ゲーム業界に入りたい」と言いながら、やはり自分の中にも迷いがあったらしく、私は出版社やレコード会社なども受けていました。……そして、全て落ちました。

その中で、ポニーキャニオンの面接が印象的だったので書いてみます。

自己PRの後、面接官がこう聞いてきました。
「今、音楽はレコードからCDへと切り替わりつつあります。
そこで質問なのですが、CDの後、音楽はどうなっていると思いますか?」

そう言われてすぐに頭に浮かんだのは、任天堂のディスクシステムでした。
当時としては最新のゲーム機だったのです。そこで私はこう答えました。

「任天堂のディスクシステムは、ゲームに飽きてもお店にある
“ディスクライター”を使って500円で書き換えることができます。
これと同じことが音楽でもできると思います。
レコードからCDに切り替わったということは、コピーしても劣化しない
デジタルデータになったということで、今後は音楽をデータとして購入し
コピーするような時代が来ると思います」

しかし、面接官は急に怒って
「そんな時代、来るわけがない。そもそも人には“所有欲”があるんだ。
音楽をデータで買ったら、CDジャケットはどうなるんだ?
歌詞カードはどうなるんだ?」

そう詰め寄られ、私も途中からしどろもどろになってしい
結局この面接で落とされました。

ただ、あれから32年経った今……
あのとき正しいことを言ったのは、どっちなのだろうかと考えると
今でもちょっと腹が立ちます。


私が新入社員だった32年前……
ハドソンには、ゲーム企画者という職種は、ほぼ存在しませんでした。
前にも書きましたが、当時ゲームはプログラマが作るものだったのです。
このため、よく先輩方からこんな心配をされました。

「お前は絵も描けないし、プログラムもできない。
今はまだ新人だから雑用してればいいけど、将来的にどうするつもりだ?」

私はいつもこう答えてました。

「堀井雄二さんみたいに、シナリオを書く人になりたいです」

学生時代の私は、ファミコン版「ドラゴンクエスト」に感動してこの業界に憧れ、ハドソンに入社したのです。

でもひとりの先輩に、こう言われました。

「お前は馬鹿か? 堀井雄二さんは絵も描けるし、プログラムだって書けるぞ?」

……確かにその通りなので、ぐうの音も出ませんでした。

その先輩、口は悪かったのですが優しい人で、そのあとすぐに私のところに来て

「しょうがないから、俺がプログラムを教えてやる!
まずは、“階層構造”ってのを理解しろ!」

突然難しいことを言われて、私はすっかり面食らってしまいました。

「……え? かいそう……ですか?」
「そうだよ! 階層構造だよ!」
「あ、そっちの“階層”ですか……すみません。なんか勘違いしちゃって、
さっきから頭の中でワカメとかコンブがゆらゆらしてました」

と、変な返答をしてしまい……
以後、その先輩が私にプログラムを教えてくれることはありませんでした。


絵もプログラムも出来ず、先輩方から将来を心配された私ですが
ちょうどいいタイミングで、CDロムの時代になりました。

CDの大容量を埋めるため、私のような文系の人間でもできる仕事が増えてきたのです。「コブラ」というADVのプロジェクトが人手不足だと言われ、急遽札幌本社に転勤となり、私はシナリオのサポートをするよう言われました。

このシナリオの書式が結構ややこしくて、ADVとしてメニューを出したり消したり、条件によって台詞を変えたりする度に、変な呪文を書かねばならず、それでも先輩に質問しながら、なんとか自分の担当分のシナリオを書き上げました。

当時、私以外に3人のシナリオ担当者がいたのですが
この書式に慣れることが出来なかったため、だんだんプロジェクトから外れてゆき、気が付くと、ほぼ全部のシナリオを私が担当するようになっていました。

作業が一段落した頃、プログラマの先輩が私の書いたシナリオを見てこう言いました。

「お前……これ、ほとんどC言語だぞ?」

相変わらずプログラムのことは全然分かりませんが
いつの間にか、“C言語っぽいスクリプト”は書けるようになっていたようです。


1988年にCDロムのゲームを作るというのは、大変なことでした。
まず、ハードディスクがありません。
当時仕事で使っていたパソコンは、PC-9801VXでハードディスクは20MB。
メイン級のプログラマだけは、PC-9801RAを使っていましたが
それでもハードディスクの容量は40MBでした。

CDロムの容量は640MBなので、とても足りません。
このため開発機材には、大容量の特殊なハードディスクが用意されていました。
384MBのハードディスクは、“骨壺”というあだ名が付いていました。
これを2台繋げて768MBにしたハードディスクは、“墓石”と呼ばれていました。
実際、その名の通りの大きさと重さをしていました。

主に使われていたのは“墓石”のほうで、これは当時1台につき
1千万円したという話です。……実際の墓石なら10基買えます。

一人じゃ運べないくらい重くて、セッティングをしていると必ず誰かから
「腰やられるなよ」と言われたので、恐らく過去に何人か腰を痛めたのだと思います。
発送する時も業者さんを呼んで、木の枠で厳重に梱包してから送っていました。

ハードディスクだけで1千万円するので、開発機材一式だと相当高かったはずです。
ちなみに当時、日本テレネットという「ヴァリス2」などを出した会社があって、そこの元社員から聞いた話なのですが……

当時、日本テレネットでは現場を“昼夜2ライン制”にして
昼に働くチームと、夜に働くチームとで、開発機材をシェアしていたそうです。
なんか無茶苦茶な開発体制ですが、初めてその話を聞いた私たちは

「それって、物理的に1日12時間以上働けないってこと?」
「仕事楽そうで羨ましいです」

……と、こんな会話をした記憶があるので、当時は自覚なかったですが
あの頃の私たちは、かなりブラックな働き方をしていたようです。


CDロム立ち上げ時期、まだCD-Rは発売されていませんでした。
そのため、実機でチェックをする時は、毎回工場にプレスしてもらっていました。
当時これは“スタンパ”と呼ばれていました。

ただ、マスターを入れてからディスクが届くまで一ヶ月弱かかったため
デバッグには向いてないというか、せっかくバグを見つけて報告しても
「もうとっくに直ってるよ」と言われることが多かったです。

1回だけ、プログラマのミスで起動しないディスクを工場に発注してしまったことがありその時は会社の偉い人が「60万損したべや(北海道弁)」と怒っていたので、そのぐらいの値段がかかっていたのだと思います。(正確な数字は記憶が曖昧です)

ウィキペディアによると、太陽誘電がCD-Rを発売したのは、1989年6月だそうです。
PCエンジンの開発機材も、それからすぐぐらいにCD-Rが焼けるようになりました。

ただその時はまだ、倍速のドライブなんて無かったので
60分のCDを焼くのに1時間かかり、ベリファイなどの時間を含めると
焼き終わるまで2時間ぐらいかかった記憶があります。

ハドソンでは10台のドライブを繋げて一気に焼いていたのですが
10枚全部起動することは滅多に無く、ひどい時は半分ぐらいエラーが出て
焼けないようなこともありました。(このCD-R、当時は1枚3000円しました。)

CD-Rのことは当時、“ワンタイム”と呼んでいたのですが
これを焼くのは私たち新人の仕事でした。
「朝10時にデバッグ始めるから、それまでに20枚焼いて」
みたいなことを深夜12時に言われたりすると、ほぼ徹夜確定でした。

ちなみに当時のハドソンには、徹夜した次の日でも、ちゃんと朝から定時まで働かなければならないというルールがあって、それが体に染みついているため、その後サイゲームスでひさしぶりに徹夜した時、プロマネから
「徹夜した人は一回帰って、午後から出社して良いですよー」と言われて
「なんていい会社なんだ!」と感激した記憶があります。

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