私の動物嫌いについて
noteを始めて最初に公開したプロフィール記事の段階から、私は動物が嫌い、もちろん鳥も嫌いだ、と同居しているマメルリハインコ・シャルの記事を書きながら、よくその前提を繰り返している。
鳥嫌いの私とマメルリハの同居生活に関する記事を継続的にお読みくださるありがたい方々には、もはやしつこいと思われているかもしれない。
でも、ある日たまたま初めて私の文章のどれかを目にされた方が「?」とならないようにするには必要かな、と思いあえて動物嫌いだと繰り返している。
通常好きである事とそれに対する関心は比例する。それにも関わらず、私は好きではない同居のマメルリハについて、ある程度関心をもって継続して文章を書き続けているから変わり者なのだろう。今回はそんな私の動物嫌いについて自分語りをする。
ちょっと困る誤解
同居しているからやむを得なかったとはいえ、マメルリハと多少コミュニケーションを取っているせいで、周囲にあらぬことを言われることがある。
「(同居マメルリハを)やっぱり可愛がってるのね、なんだかんだ言って」
「鳥が好きになったのね」
「動物が嫌いという設定」
いずれも心外である。たとえ嫌いな家族でも、どうしようもない事情で我慢して同居を継続していることもあるだろう。私にとってシャルはそういう存在である。ちなみに私は鳥は嫌いだが、シャル自身に対しては好きとも嫌いとも言い難い感じである。また誤解されそうだが、正直なところそうなのだ。可愛く思ってもいない。
動物嫌いから見たカワイイ動物の印象
動物の何がそんなに嫌なのか、と言われるが嫌なものはイヤである。元々そうだったし、これからもそうだろう。その感覚を説明せざるを得ない時、多くの人がカワイイという動物何か(チワワとかウサギとかネコとか)とわざわざ名前を避ける害虫「G」を私は引き合いに出す。
どんな生き物好きでも、多くの人があの「G」を嫌っていると思うのだが、その「G」に対する嫌悪感と同じ感覚を、私は対象範囲が広く、ほぼすべての動物に対して持っている感じだ。ただし、一般的にカワイイ動物であれば、ビジュアル面で「G」よりは遥かにずっとマシで嫌悪感が少ない。でも絶対にその嫌悪感はぬぐえないし、その嫌悪感は無視できない存在感である。
そして当然ながら、マメルリハもカワイイ方(鳥類苦手な方を除く)だが、同居中のシャルに対してもその嫌悪感は存在する。ごめんな、シャル。
しかし、シャルは現在この世で私が触れる貴重な生き物である。言い換えると、触れるほどには嫌悪感が薄い。そんな生き物は私にとって唯一無二である(シャルへのフォロー)。ただ、同じ種類のマメルリハでも、シャル以外はその他の別種の生き物たちと同レベルになる。
動物嫌いの子ども時代
もちろん動物嫌いの子どもだった。が、その自覚はなかった。
動物園に行けば、大人たちは私が喜ぶと思って「ふれあいコーナー」のようなところで私にウサギを抱かせていた。ウサギを抱いていた私自身、「子どもは普通、動物とふれあうのが好き」と思い込み、本当は怖かったし嫌だったのに言えずにいた。
私が7歳の時に生まれた弟は動物が大好き(鳥も大好き)。私に限らず、小さい子がちょっと怖がりそうな大きい犬にも大喜びで近寄っていた。私は当然そういう時はその場を避けていたので、私と弟の動物に関する反応の差は歴然で、周りもそれがわかった。
そして私がちゃんと自分が動物ダメなんだ、と自覚してそれを言えるようになったのは、やっと10代になってからだった。
そこで私が動物嫌いである事実と「ある事」にまだ幼稚園の弟がキレた。
オーストラリアの動物
私は弟が生まれる前の5歳の時、両親とオーストラリアへ旅行に行く機会に恵まれた。その時、私はコアラを2度抱いてみたことがある。
1回目は、母が「コアラを抱けるなんて良かったね!」と言って本人も抱けるのを喜んでいたが、私はやっぱり嫌だった。しかもいざ抱いたら、子どもの私の腕が不安定だったため、コアラが爪でしっかりと私の腕につかまっていて痛かった。
2回目は、コアラがコアラのぬいぐるみを抱いた状態で私が抱いたので、痛い思いをしないで済んだ。でも1回目のトラウマでこの時もおっかなびっくり。でも「コアラの毛並みはやわらかいなあ」と思う余裕はあった。
他にワラビーや小鹿(リアルバンビ)などにも触れる動物園に行った。つまり、いろんな動物を放し飼いしていたところなので、私には恐怖の思い出になるが。母は私にバンビを触れる思い出を作ってやりたくて、さかんにおとなしく座っている小鹿に触るよう促した。どうにかこうにか触ったが、今思い出しても怖い。
「あんた(私)のせいで、バンビの方が震えていたわね、まったく。あんなにかわいかったのに~」とその後何度言われたことか。その動物園では、むしろ両親の方がご機嫌で、二人が笑顔でコンゴウインコを両腕にのせて餌をあげている写真を私が撮った。
この思い出話に弟はキレた。
「ぼくがオーストラリアに行きたかった!」
「何でよりによってお姉ちゃんを連れて行ったの!」
お姉ちゃんもそう思うよ。ごめんね。でも生まれてなかったじゃん?
以来、弟の前でオーストラリアの思い出に関することは禁句である。
この体験がいかに貴重だったか、今となってはよくわかる。が、弟に言わせればこれだけ「良い思い」をしておいて、私にはそれほどでもないことが動物嫌いが筋金入りである証拠である。豚に真珠。猫に小判。
共有できない気持ち
動物がダメなので、動物では癒されない。動物番組も私はNGである。昔家族がある人気動物番組を見ていたが、私は食事中だけはやめてほしいと頼んでいた。嫌悪感と共に食事をしたくないからである。
その時の家族の残念そうな顔。
一緒に楽しめたら良かったのに(無理)。
私は動物本体ではなく、動物の映像や写真もあまり好まない。SNSで共有されたカワイイ動物の画像や動画が、他のアカウントあちこちから集めて公開しているだけのアカウントとわかったらミュート。
学生時代、生物の授業で剥製が回されてきた時は、恥ずかしいことに剥製も嫌すぎて大騒ぎしてしまって、周りは笑うか引くかだった。
動物をそんなにいやがるなんて、何か欠落している、おかしいんじゃない、などと評される事もあった。周りに好きな人が多い(感じがした)分、私の異質さは目立つ。私があまり好きではない親戚に「動物は不潔」と言って嫌う人がいて、その親戚に良い印象がなかった私は、その人と同列にされるのが嫌だった。でも残念ながらその人のDNAが隔世遺伝したのかも。
私ほどではないが、動物が苦手な知人が言った。
「動物嫌いって言うと変人扱いされて、子どもが嫌いの方が受容されてるの意味わかんない。」
ちょっと救われた。
母の影響
私がオーストラリアで貴重な経験(恐怖体験)していた5歳頃、母に言われた言葉がある。
当時、「今(当時)はわからなくても、大人になったらわかる」とも言われた。この考えが根底にあるからこそ、現在母が私と弟とシャル(マメルリハ)の名前をちょくちょく呼び間違えているのも腹立たしいが納得できるのだ。彼女にとっては、全員区別して養育と教育をした対象だからだ。私自身弟と差別された記憶はない。少なくともそう感じたことはない。
差別の根底には、差別対象に対する知識や理解がないことがよくある。母とシャルと暮らしているうちに、母の影響を受けつつシャルというマメルリハに対する私の理解が進み、知ることで嫌悪感や拒否感が他の生き物に比べて少なくなっていったのだろう。
そうなると、母の影響を自然と知らないうちに子どもの頃から受け続けてきた私が、動物嫌いの割にシャルの言動に関心を持ってしまうのもご納得いただけるのではないか。
母の影響の結果
4つ目の見出しの所を書いていたら、ちょうど籠外活動中(放鳥)だった我が家のマメルリハ・シャルが私の肩に飛んで来た。母は(私にシャルを見ておくよう言いもせず)昼寝に行ってしまっていた。一応野放しのシャルを視界の端に入れつつパソコンに向かっていたら、シャルがかまってもらおうとやって来たようだ。
私がかまわないでいたら、今度は私の目の前のカーテンにシャルは飛んで行き、私を見下ろして何か言いたげである。あの手がダメならこの手、らしい。パソコンの上に行くと怒られるのをシャルは覚えているようだ。
母がいなくてかまってもらえないから、寂しいらしい。寂しさは人間だって普通に持つ感情だと思い至ってしまうと同時に私の負けを悟った。
根負けして首筋をなでてやっていたら、シャルは納得したらしく、鳥籠に帰ることにした。鳥籠にシャルを戻し、我が家のルールで麻の実を一粒シャルが食べた。筋金入りの動物嫌いの私の指から。
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