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テレビの国の住人

 かれこれ10数年前になるだろうか、和歌山県で就職した台湾人の友人と食事をしていたのだが、日本のテレビ放送が少ないことを不思議がっていた。東京で地上波放送は7~8チャンネルだし、地方だとさらに少ないだろう。
 日本の近隣諸国ではケーブルや衛星で100チャンネルを受信するのが当たり前であり、(話を聴きながら)出張先のホテルで風呂あがりの台湾啤酒を飲みつつビリヤード専門チャンネルを眺めたのを思い出していた。
 きっと友人は、和歌山の社員寮で片手で数えるほどの選択肢しかないチャンネルに驚いたと同時に寂しく思ったことだろう。何故だか、申し訳ない気持ちになった。2軒目は奢ろうと心に決めていた。

 今後も地上波のチャンネル数が増える気配は無いが、それを気に留める人は多くないはずだ。それどころか、私の周辺では家にテレビが無い人や地上波放送を一切観ない人が過半になっている。いや、そうは言っても本当は見てるんじゃないの?と訝しく思ったが、誰も見ていないテレビが点けっ放しの実家に違和感を覚えたときに、自分もリアルタイムでは地上波を視聴していないことに気がついた。
 自宅ではHDDレコーダーが録画するバラエティ番組などを消化しながら食事することもあるが、気づけば1ヶ月分ちかく積み上がっている。それもストレスの要因なので、鮮度が落ちたものは未再生でも削除している。

 なぜそのような状態に陥るかを敢えて言うと、誰しも1日で使える時間が限られているからであって、モニター画面を見る行為でもYouTubeやamazonプライム、NETFLIXなどのネット配信系はコンテンツが充実しており、ゲーム機で遊ぶ人もいれば、SNSと真剣に向き合う人ならスマホの画面サイズで十分だ。液晶画面が皆さんの余裕時間を奪い合っている状況は同じだろう。

 在宅勤務の普及で自由に使える時間のパイは拡大したかも知れないが、地上波の視聴時間が増えた、視聴率があがったという話は聴いたことが無い。
 興味のある情報であったり、深堀したい知識の取得には(配信も含めたネットと比較すると)地上波放送はリーチするのに余りにも効率が悪かったり、内容の信憑性に劣ることも理由の1つと感じる。自分の関心が薄い分野の情報も広範囲に収集できるメリットはあるが、能動的に得られる情報なので記憶や知識として蓄積されるかは疑問だし、そう錯覚させる効果は逆に厄介でもある。

 今から30年くらい前に高橋源一郎氏が週刊朝日に寄稿したコラム「テレビの国の淋しい天才」が秀逸だったので、いまでも記憶に残っている(引っ越しの都度、記事のコピーが出てきて読み返しているのが理由だが、ついにコピーも見つからなくなってしまった…)。
 そのコラムの後半では「おそらくテレビを制作している放送関係者も、面白いと思って番組を作っていないであろう。そして彼らの目の前には、何かを作って埋めなくてはならない時間が無限に広がっている。」と綴っていた筈だ。

 30年前と言えば、タモリさんが倶楽部で活き活きし始め、生テレビでは朝まで放送禁止用語が連呼され、世界の各地でふしぎが発見され始めるわ、電波の少年らに人生の過酷さを見せつけられるわで、まだ地上波にバイタリティが有ったと感じさせる時代であったろうに、この辛辣なテレビ批評である。
 当時、何度目かの激辛ブームが来ていたのだろうか? いや、90年にブームなのはティラミスだ。

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 翻って現在は、(実家で能動的に得た感覚では)芸能人やタレントがクイズで対戦するフォーマットが主流だろうか。午前8時からお昼を挟んだ時間帯のワイドショーが酷いらしいと目にしたこともあるが、ここでは蛇足になるので遠慮しておく。

 なぜ誰も観ていないテレビを点けているのかを聴かれた母親は「年寄り夫婦だと何か音が流れていないと寂しいのよ」と自嘲気味に言う。
 続けて、普段はなにを観ているのかを聴いても明瞭な回答はなく、画面の映像は目で追っていても脳は受信のスイッチを切っているのではないかとさえ思ってしまう。そうなると、単なる眼球の反射運動だ。

 視聴者に豊かさを提供するなどの高邁な理想ではなく、網膜への投影として一定の視聴者層の生活に組み込まれている現状であれば、電波の無駄使いも、質の低下も、偏向報道も、誤報の連発も結構ではないか。受動的な視聴が残されていれば社会的な影響力は(ある程度は)担保されるだろうし、選挙の1票に同じく民意と言えばそれも民意だ。
 ただ、コンテンツを云々する人さえ存在しなくなった無限の空間をお手盛りの番組で埋めてゆく制作側には苦行だと同情するが、いまだに苦行の対価が桁外れならば同情は撤回しておきたい。撤回と撤退は早いほうがよい。

 地上波をオンデマンドで観る視聴者の立場からすると、CMも回想もダイジェストも番宣も飛ばせるだけ後ろに送って65%ほどに痩せ細った本編を観ながら、まだ「お茶の間」があったサザエさん時代のビジネスモデルが続いてる現状を不思議に思わざるを得ない。
 その送り操作をしているリモコンの最上段には、hulu、NETFLIX、YouTubeのボタンが鎮座しているし、拙宅ではテレビのブラウザAppでBS放送を観るためのマウスも繋がれている。数字ボタンなどは押したことがない。
 いつの間にかテレビは動画の再生機と化し、チューナーが付いているのが救いに思えるほどだ。地上波放送の縮小傾向は抗いようがない。

 ネット配信では、過去からニコニコ動画のコメント投稿が一体感のツールとして需要されてきた。YouTubeライブではアンカーとの距離が近くて視聴者が配信の内容にも影響を与えることや、全体のリテラシーが高く保たれる仕組み(モデレーターの導入など)が構築されているのも強みであり、こうした流れの延長に新しい放送のパラダイムが有るのかも知れない。
 例えば、コンテンツの放送を入り口にして有料の配信(オンラインサロンのような空間)にシームレスに誘導するような仕組みをメディア企業が統括するような、放送と配信が複合したチャンネルだったりするかも知れない。すでに近い仕掛けは起こり始めているが。

 さて今日は、千葉県の小湊鐡道が持つYouTube公式チャンネルで、機関車から牽引している貨車を撮影している動画「貨車と景色を眺める映像」を横目で見ながら作業をしていたが、そんな95分間の動画を眺めた人が5日間で55,000人もいるだなんて、日本も素敵じゃないか!
 無蓋車に積まれた枕木を揺らしながらコトコトすすむ貨車を網膜に投影させることでローカル線に思いを馳せられる時代にこそ感謝をしたい。

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