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もう何も知らないわたしには戻れない

私は幼少期から本を読むのが好きで色々な本を読んできた。SF、ミステリー、ノンフィクション、小説、自己啓発本。今まで何冊読んだかなんて分からない。その中でも私はなぜか戦争だったり、虐待だったり、そういう世界の暗い部分をテーマにした本を読んでしまう。この感情を言葉にするのはすごく難しくて、好んで読むっていう感情は違う。だけど、知りたいっていう感情がたしかにそこにあって読むのは辛いけれど、読まなければいけないという謎の使命感に突き動かされているというのが1番正しいかもしれない。
 正確な時期は覚えてないが小学4年生か5年生ごろからこういう本を読み始めたと思う。当時の私はその本を読んだからといって、怖くて夜眠れなくなるとか悲しくなって本を読み進められなくなるとかが一切なくて、それは今も変わらない。私はちょっと心が欠けてるのかなって思った時期もあった。

さて本題だ。私はそういう本を読んでいく中で本当にたくさんのことを知った。戦争、紛争、拷問、虐待、差別、ネグレクト、福祉からこぼれ落ちてしまった人たち。私が生きてきた16年間で体験したことがないさまざまな人の人生を知り、登場人物に降りかかる出来事に彼らと共に一喜一憂した。
 そういう知識ばかり取り入れ続けた結果、私は純粋に毎日を楽しめなくなってしまった笑 
 こう、文章にするとただ読んで知った気になって被害者づらしてんなよって感じなんだけど、本当に人生が変わった。何をするにしても、私なんかが楽しむ資格はあるのか、あの人たちはあんなに辛い経験をしてきたのに私はこんなに恵まれた人生を送っていいのだろうか。忘れた頃にこの感情を思い出して忘れて思い出して。私の人生のレギュラーメンバーになってしまった笑 

どこで読んだのか忘れてしまって本当に申し訳ないのだけど、国境なき医師団関係の本の中にこんな言葉が出てきたことがある。

ただ生まれた場所や時代が違っただけで、私があっち側の人間だったかもしれないから私はここで働いている
国境なき医師団の本(正確に覚えていないです。ごめんなさい。)

(あっち側というのはスラム街や、難民キャンプに住んでる方達のことを指す。)

 この文を読んだ時、すごく納得した。私がそういう本たちを読む理由は意識の奥底にこういう考えがあったからなのかなって思った。人生で初めて、自分の心にある言語化できない感情が少し消化された気がした。

この歪みきった世界に気づいてしまってから、何もかもが無意味に思えて、何もすることができない自分が憎くて悔しくてどこにもぶつけることのできない感情を抱えて生きてきた。話の話題に出した時に「なにそれー笑」「こわっ」「やっぱ(私の名前)は真面目だねー」と言う同級生が憎くて少し羨ましかった。

でも、今の私は

ただ生まれた場所や時代が違っただけで、私があっち側の人間だったかもしれないから私はここで働いている

この言葉に出会えたことでそんな自分を悲観することを少しずつやめることができていると思う。私の夢は、「この世界から飢餓で亡くなる子供を0にすることだ」まだ誰にも言ったことがない。だってこんなこと言ったら笑われるから、馬鹿にされるから。私もわかってる。そんな夢みたいなことできるわけがないって。でも、夢ぐらいみたっていいじゃないか。私1人で成し遂げられることではないってこともわかっているし、生きている間に成し遂げられない可能性の方が大きいこともわかってる。でも、こういう気持ちを持つ人たちが1から2に2から10に増えていけば夢物語ではないと信じたい。

歪んだ世の中を知らずに生きている友達が、一部の大人が、ちっちゃい子供たちが羨ましい。私もできれば気づかずに深入りせずに自分のことだけ考えて生きていたかった。でも気づいてしまったんだから。あえていうなら、気づくことができたのだから歪みを0.1でもなくせるように生きていきたい。

 知らない人を羨ましむことにエネルギーを使うのではなく、知れたことに感謝して生きていこうと思う。

まとまりのない読みにくい文章であること、まだなにも知らない16歳の発言であることをどうかお許しください。

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