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息をしているだけで幸せを感じられる人間になりたい

いいなあ、ってなんなんだろう。

動物や植物との暮らし、美味しそうな自炊ご飯、独身貴族の毎日、新婚生活。
日々、SNSでいろんな人の暮らしを覗いては、「いいなあ」と独りごちている。SNSには、羨ましくなる対象が多すぎるなと思う。

中高生の頃の私は、白い壁の部屋に住むのが憧れだった。実家のグレー色の砂壁は、全然おしゃれじゃなくて好きになれなかった。

だから、白い壁でなおかつ統一された色の家具に囲まれて暮らすことに、ひたすら憧れていた。
でも、そんな憧れは、一人暮らし開始とともに簡単に日常になった。

いいなあ、と焦がれ続けた憧れは、叶えてから少なくとも1年も経てば日常になり、何も感じなくなる。幸福ってそもそも、そういうものらしい。
たとえ宝くじが当たっても、1年もすればもとの幸福度に戻る。これを心理学的には『快楽のウォーキングマシン』と言って、ちゃんと名前のついている現象らしい。憧れも幸せも、案外もろい。

私は、たくさんの憧れを辿ってきた自覚がある。
高校で愛媛を出て、当時憧れていた関西弁圏の神戸の大学へ行き、就職では楽しいものや素敵なものがたくさん溢れる東京に出た。いろんな「いいなあ」を辿ってここまで来たけれど、自分はあの頃憧れていた「いいなあ」になれているのだろうか。

東京、眺めのよい高層ビルで働きながらバンドもして、狭いながらも新築の綺麗なマンションに住んでいて。
高校生の頃の私が、今の私を無声映画で観れば、いいなあと目をキラキラさせるだろう。

だけれど実際の今の私ときたらどうだ。25年も生きてきたというのに、自分にとっての幸せな日々や暮らしがわからず、日々悶々と考え続けている。悩みすぎて鬱々とした気分の落ち込みから数日抜け出せないことさえある始末だ。

過去の私から見れば、確実に「いいなあ」の対象だろうに。

これを叶えれば、少しは幸せになれるかな。
これを叶えれば、少しは暮らしを愛せるかな。
これを叶えれば、少しは自分を好きになれるかな。
これを叶えれば。あれを叶えれば。

過去の私から見れば確実に「いいなあ」の対象であろう"今の私"は、仕事も生活も満足ができずにこんなことばかり考えている。

これは、過去の自分と今の自分、という比較だけじゃなくて、自分との比較で他人の暮らしが素敵に見えるのも同じ原理なんじゃないかと思う。

SNSでは一部分しか切り取られないから、本人でないとその写真・文章の裏側は分からない。
どんなに憧れられる暮らしをしている人であっても、その枠の外には大変なこともたくさん隠れているのだろう。そんなのは当たり前のようで、忘れがちだ。

石田ゆり子が先日インスタライブで、「暮らしをみなさんに羨ましがられることよくありますけど、おすすめしません。大変ですよ。私は強いですから。強くないとしんどいと思います。」といったニュアンスのことを言っていた。

犬や猫たちに囲まれて、あれだけ美しい石田ゆり子でさえそんなことを言うのだから。

SNSで簡単に他人の暮らしを覗ける今、憧れって際限がない。自分にとって必要十分の幸せを見つけて満足できる大人になりたい。はやく暮らしに満たされたい。暮らしに満たされて、息してるだけで幸せを感じられる人間になりたい。それくらい楽になりたい。

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