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【改稿版】カレーの事情《4》「僕に救いをくれる人たち」

 目の前で光が散って、ざあと風が吹き抜ける。途端、充満していたカレーの味が一掃され、喉の奥に押しやられる。それがつんと気管を刺激した反動で小さく咳が出て、記憶の底から我に返ったことを自覚した。

「広?」

 呼び掛けに顔を上げると、竹本たちが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「どうした? どっか痛いのか?」

 その言葉に思わず目元を拭う。見ると指先が濡れていて、僕は泣いていたのだと気付かされた。え? なんで? 戸惑い、ぽつぽつとつぶやいた声は涙に滲んでいて、かすかにふるえる。なんで、なんて馬鹿らしい。わかってるだろ。僕はまた、成し遂げられなかった。ぐいぐいと乱暴に目元をこすると、皮膚がひきつって顔の傷が痛い。すると、次々に「大丈夫?」と声が掛かった。顔を上げると、心配そうに覗き込んでくる皆の顔がある。僕のために心配してくれる人がいること、彼らがそばにいてくれることがなにより恵まれているし、救われる。それだけで僕は、過去に沈まず生きていける。
 ふと、一番離れた位置にいた彼と目が合う。不安げに見つめるその瞳には、ちゃんと光が射していた。それは、僕が助けた彼がちゃんとそこにいて、生きているということを証明していた。大丈夫。生きてる。言い聞かせるようにふぅと息をついて、ぎこちないながらも笑顔を作る。

「大丈夫、なんでもない。全部、思い出したんだ」

 悲しくて辛いだけだった過去の記憶が、今日一日の出来事を思い出した今、不思議と心穏やかに感じられる。つぶやいた声も心なしか柔らかになっている気がした。この記憶をもう忘れてはいけないと、染み込ませるように目を瞑り、そしてゆっくりと開いた。

「本当に?」

 瀬古先生が心配しそうな声で問いかけてきて、僕は頷きながら答える。

「はい……。声が、聞こえて、なんか……助けなきゃって思って……」

 けれど、どう話せばいいか迷って途切れ途切れにしか言葉を紡げずにいると、竹本がぽつりとつぶやく。

「普段のお前だったら逃げそうなのにな」

 その言葉に顔を上げると、竹本が真っすぐに僕を見ていた。その視線がなにか見透かそうとしているように思えて、僕はたまらず目を逸らす。過去のことはまだ、知られたくない。けれど、少しだけ話したくなって、おもむろに口を開いた。

「……あの、昔、いろいろあって……殴るのも殴られるのも嫌なんだよ。見過ごすのも嫌だっただけ」

 カッコつけすぎた気もするが、今はこんな言い方しかできなかった。すると、彼ー三田君が目を輝かせてたどたどしくも切り出した。

「僕は、ヒロ先輩はすごいと思います。思ってても実際にはなかなかできることじゃないし……ヒロ先輩は、僕のヒーローです!」
「あ、ありがとう」
「なんかダジャレみたいだね」

 一瞬過った思考を、梅沢が空気を読まないで口走った。すかさず竹本が無言で梅沢を小突くが、三田君の顔はすでに真っ赤に染まっている。その様子になんだかこっちが申し訳なくなってきた。

「ね、ねぇ、松井君。結局、記憶喪失になった原因は何だったの?」

 瀬古先生が無理矢理話題を変えさせるように僕に訊いてくれて、少しほっとする。けれど急に話を振られて若干焦り、えっと、とつぶやきながらも、頭の中で思考を巡らせてから、静かに答えた。

「たぶん俺の精神的ショックもあったんだと思いますけど、直接的な原因は……先生の顔面キックです」
「ええ!?」

 瀬古先生は誰よりも大音量で驚きの声を上げた。おおげさに狼狽える姿が、申し訳ないけれど面白い。笑うまいとしていたけれど梅沢が大爆笑しているのにつられて、こらえきれずに少しにやついてしまった。

「ごめん! あれは事故だったのよ」

 必死に謝る瀬古先生を前に、僕は「大丈夫です」と言って快く許した。

「じゃっ、帰りますか」

 竹本が入口に向かって歩きながら僕らを促す。梅沢は「おう!」と言って、その後に続き、僕もベッドから降りて身支度を整え、二人の後を追った。そして、後ろにいた三田君に呼び掛ける。

「三田君も、一緒に行く?」

 三田君は呼ばれると、笑顔で「はい!」と答えた。その時見せた快活そうな笑顔が、なんだか彼に似ているような気がした。

 僕らは次々に保健室を出て、すっかり陽が沈んだ廊下を横並びに歩いていた。窓から見上げた空はオレンジの余韻を少し残して赤茶色に染まっていた。その色は、どことなくカレーを思わせる。そんなことを思っていたからか、ふいにまた、鼻孔にカレーの匂いが広がる。ターメリック、レッドチリ、クミン、コリアンダー。さまざまなスパイスが混ざり合った中に、少しだけ顔を出すトマトの香り。じっくりと煮込まれたカレースープの香ばしい匂いの余韻が空腹を刺激する。今日は何カレーだろうか。ぼんやりと思いながら、僕はぽつりとつぶやいた。

「さっ、帰ってカレー食べるか」
「またカレーかよ」
「このカレー星人」



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