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大原美術館と足立美術館

1.大原美術館
 創立者は大原孫三郎。
 自身が援助していた洋画家・児島虎次郎に託して欧州などから買い付けた洋画など海外の美術品を展示するために1930年(昭和5年)に開館した。
 岡山県倉敷市の美観地区にあり、JR倉敷駅からも徒歩15分ほど、抜群のロケーションに佇む(年間来訪者数は約30万人)。
 大原氏は、江戸幕府の天領であった倉敷の地で、綿の仲買業などを先祖代々営む豪商の七代目で、(株)クラレ(倉敷紡績)を設立するほか、銀行、新聞社、電力会社、病院などを経営する実業家として財を成していた。美術館の他に、社会問題や労働科学研究所、農業研究所(現・岡山大学・資源植物科学研究所)も設立するなど、生涯にわたり社会や文化・教育の発展に努める姿勢は、多大なる影響を今日まで与え続けている。
 八代目の大原總一郎は、大正時代末期に柳宗悦らによって創られた民藝活動を支援し、江戸時代から倉敷に伝わる伝統的な建築様式自体も民藝品であるとの思いに基づいて、米倉を改装して倉敷民芸館を1948年(昭和23年)に開館させるなど、倉敷の地に「いま」に伝わる美観地区(写真)の保護に努めたことは、なんと素晴らしいことをしたものだ!と感服した。


旧大原家住居(国指定重要文化財)

2.足立美術館
 創立者は足立全康。
 創立は、まさに高度経済成長の真っただ中の1970年であった。
 島根県安来市、JR駅から車で20分程度中国山地の方へ向かった田園風景の真っただ中にある。周囲には鷺の湯温泉があるが、他に目立った観光名所があるわけではない。
 ところが、足立氏がわずか一代で成した財力のおかげで、彼は自身の生まれ故郷の地に、晩年の71歳、世界中の人々を魅了する唯一無二の足立美術館を創設したのである。我が国を代表する(※米国 The Journal of Japanese Gardening誌が連続21年で1位に選出)日本庭園(およそ15ヘクタール)の美しさと横山大観を中心とする豊富な近代日本画のコレクション(およそ2,000点)を観るために、年間60万人以上の観光客が押し寄せているのだ。これは、大原美術館と比べても凄い!!驚異的な意味を含んでいる。
 地元にも多くの雇用が生まれ、さぎの湯荘には地元出身のスタッフ(仲居さんは30年以上のベテランだった)が皆元気に働いていた。また美術館の庭園では専属の庭師さんたちが、枯山水やマツの手入れに磨きをかけているのがとても印象的であった(写真)。


足立美術館の庭園と松の手入れ作業

 さて、この対照的な美術館を訪れて感じられることを纏めてみます。
 足立さんは、砂鉄の精錬で栄えた製鉄業の街、安来の農村部で生まれ育ち、中国山地の里山から造られていた木炭の粉(さほど価値が無く捨てられていた)に灰と水を混ぜて丸めて乾かしたもの(炭団たどん)を、街に運べば高く売れることを知ったことから、商売のイロハを学んでいる苦労人です。のちに大阪へ出掛けて、戦後の混乱期に船場で数々の商売を繰り返しながら、現在の新大阪駅周辺が開発されることに着目して、不動産業で財を成したそうです。
 さほど観光的価値の無かった生まれ故郷に、日本庭園と日本画という文化を持ち込んで一大観光産業を育て上げた手腕には、学ぶべきところが多いのではないでしょうか?
 一方、大原さんは、名家に生まれ育ち、豊かな感性で10年先を読みながら、斬新なアイデアで次々と社会実装をされてきました。
 お二人とも、流石に今のインバウンド需要までは予想されなかったでしょうが、日本の伝統的な文化を守り、それを次代に継承し発展させることが、自身の生まれ育った地域に価値を与え振興させることを予知し、確信を持って生涯を生き抜かれたのではないかと感じました。
 この伝統的なものに、革新的なものを合わせていくことに、日本の地域社会の挑戦のヒントがあると思います。


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