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橋本倫史+粟國智光「マチグヮーの魅力を語る」

「県民の台所」として知られる那覇市第一牧志公設市場は、2019年6月から半世紀ぶりの建て替え工事が始まりました。建て替え工事が始まって、風景が変わってしまう前に、今の姿を記録しようと、僕は2019年5月に『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)を出版しました。

 市場が一時閉場を迎えると、街の風景は想像した以上のスピードで変化していきました。市場は100メートルほど離れた仮設の建物で営業していましたが、人の流れが如実に変わってゆくのを感じました。

 その様子を目の当たりにして、建て替え工事期間の風景を記録に残さなければと、琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」と題した連載を始め、さらに「まちぐゎーのひとびと」と題したフリーペーパーを自分で発行し、毎月那覇に通いながら取材を重ねてきました。「まちぐゎー」とは、市場を意味するうちなーぐちです。

 その連載が『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(本の雑誌社)として一冊にまとまったことを記念して、2023年4月30日、ジュンク堂書店那覇店でトークイベントを開催しました。ゲストとして出演していただいた那覇市第一牧志公設市場組合長の粟國智光さんとのトークを、ここに採録します。

粟國智光(あぐに・ともみつ)さん。
1974年那覇市生まれ。
那覇市第一牧志公設市場に店を構える「山城こんぶ屋」の3代目。
2013年より第一牧志公設市場組合長を務める。

橋本 那覇市第一牧志公設市場は、今年の3月19日にリニューアル・オープンを果たしました。市場の建て替え工事は半世紀ぶりだということで、移り変わる街並みを記録しておきたいと思って、建て替え工事期間のあいだ毎月那覇に通い、琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」を連載していたんです。この連載が、市場のオープンに合わせて、『そして市場は続く』という本にまとまることになりました。この連載は、普段あまりマチグヮーに足を運ばない方や、離れた場所に暮らしている方にマチグヮーの話を届けたいと思って書いていたんですけど、ずっとマチグヮーで過ごしてこられた粟國さんがどんなふうに読まれたのか、伺ってみたいと思ったんです。

粟國 こうして読み返すと、想像していた以上に街が変化したんだなと思ったんですね。その時期のマチグヮーの記録として、とても大切な本だなと。マチグヮーで頑張ってきた先輩方もたくさん出てきますし、この市場の成り立ちのこともしっかり書かれていて、マチグヮーの記憶について書かれた大切な一冊だなと思いましたね。

建て替え工事が始まる前の那覇市第一牧志公設市場の様子。

 橋本 ありがとうございます。僕は広島出身で、10年前から沖縄に通うようになったんですね。以前からマチグヮーに遊びにきたことはあったんですけど、迷路みたいで、右も左もわかってなかったんですよね。ただ、公設市場が建て替え工事を迎えると知って、だったら耐え変え工事が始まる前の風景を記録しておきたいと思って取材を始めることにしたんですけど、どこからどう取材したらいいのかわからなくて。そのときたまたま入ったお店が、粟國さんのお父様がやっているお店だったんですよね。そこで「市場のことを知りたいんだったら、うちのお兄ちゃんが組合長をやっているから」と、粟國さんとお会いして。

粟國 そうなんですよね。「ライターの橋本さんという人が来てるよ」と、父親が繋いでくれて。そこで市場の成り立ちや、ここがどういう場所なのかということをお話ししたんです。そこから橋本さんが取材を始められて、『市場界隈』という本を書かれたんですよね。それで取材は終わりかなと思っていたら――マチグヮーというのはやはりストーリーのあるエリアですから、いろんなものが繋がっていくし、続いていく場所なんですね。それで橋本さんもこのエリアに入り込んでしまって、それが今回の本に続いたのかな、と。

 

第一牧志公設市場の再整備プラン

 
橋本 さっきも話したように、僕が取材を始めたきっかけは、「もうすぐ公設市場の建て替え工事が始まる」と知ったことだったんです。でも、市場を建て替えるという話自体は、もっと昔から議論されてきたわけですよね。最初に「市場を建て替える必要があるんじゃないか」という話が持ち上がったとき、粟國さんはどう感じられたんですか?

粟國 きっかけは平成18(2006)年に建物の調査をしたところから始まっているんですね。公設市場は那覇市が管理する公共施設なんですけど、耐震強度をチェックしてみたら「そろそろ建て替えを考える必要がありますよ」という話が出てきたんですね。それで平成20(2008)年に、当時の那覇市の経済観光部長から、第一牧志公設市場の再生プランを見せてもらったんです。そのプランというのは、観光経済部長がまだ若手職員だった時代に、実測で調べて組み立てた再整備プランだったんですよね。もしも建て替えるとなれば、前の建て替え工事のときに紛糾した経緯があるもんですから、「これはかなり長い事業になるはずだから、今のうちに合意形成を始めないといけないんじゃないか」と言われたんです。自分は当時、公設市場の副組合長だったんですけど、「再整備に取り掛からないといけないんじゃないか」と当時の組合長に相談をして、当時の翁長雄志那覇市長とも意見交換をして、マチグヮーを引っ張ってきた顔役の大先輩も巻き込みながら議論を始めたんです。そのきっかけが生まれたのが平成20年なんですね。

大勢のお客さんで賑わう旧・第一牧志公設市場の食堂街。

橋本 議論が生まれた段階では、まだ副組合長だったわけですよね。粟國さんが今おっしゃったように、半世紀前に牧志公設市場の建て替え工事が議論されたときは、どうやって建て替えるのか議論が分かれてしまって、第一牧志公設市場と第二牧志公設市場のふたつに割れてしまった歴史もあるわけですよね。そうした歴史的な経緯を鑑みるに、建て替え工事となると、かなり大変なことが巻き起こるのは想像に難くないと思うんです。でも、大変な役回りだとわかっていながらも、「自分が組合長をやります」と手を挙げられたんですか?

粟國 いや、これに関しては、手を挙げたというのではないんです(笑)。ただ、自分は山城こんぶ屋の3代目なんですけど、この山城こんぶ屋というのは公設市場がまだ闇市だったころ、青空市場だった時代から商売していて、公設市場とともに歩んできたこんぶ屋なんですね。それに、今までの歴史的な経緯から言うと、この市場は普通の市場とは違うんですよ。那覇市議会の記録を調べたり、先輩方の話を聞いたりすると、もう市議会に乗り込んで陳情をして――「ここに市場をつくらないと商売にならないんだ」と、当時の市場事業者の方たちが命がけでつくった場所なんです。そういった歴史は先輩方から聞いていましたので、自分にできることはやらないといけないんじゃないかと思ったんですね。


市場と周辺事業者は運命共同体


橋本 それで組合長に就任されて、市場事業者の皆さんの意見をまとめられて、建て替え工事にこぎつけたわけですね。そうして2019年6月16日、市場の一時閉場セレモニーが開催されることになった、と。あの日は、半世紀近い歴史を誇る前の建物がなくなってしまうことを惜しんで、大勢の買い物客が詰めかけていました。これだけたくさんの人の思い出が詰まった場所だったんだなということを改めて感じた一日でもあったんですけど、あの日は粟國さんの中ではどんな一日として記憶に残っていますか。

粟國 実はですね、僕の立場でこんなことを言うのはよくないんですけど、公設市場の建て替えについては、ちょっと別の考え方を持っていたんですよ。新しい建物に建て替えるんじゃなくて、改築・保存をやるべきなんじゃないかと動いていたんです。僕としては、旧・市場というのは天然記念物的な建物だと思っていたので、組合長という立場でなければ、「建て替えるんじゃなくて、保存するべきじゃないか」と主張したい気持ちでいたんですね。実際に、建て替え工事の議論が始まったとき、現地建て替え案と、にぎわい広場移転案と、僕たちが提案した長寿命化案と、3案で議論していたんですよ。しかも、NHKの『きんくる』という番組で市場の建て替え問題がクローズアップされたときに、市場の再開発にかかわってきた先生が「長寿命化が必要なんじゃないか」という話をされていて、ああ、これは自分が思い描いていたことが実現できるかもしれないなと思っていたんです。でも、そのあと平成28(2016)年に熊本で地震があって、市役所が倒壊してしまうということが起こってしまって、公共施設の安全性が問われる状況になったんですね。 

旧・市場時代の「山城こんぶ屋」。

橋本 何よりまず安全性だという方向に議論が切り替わって、長寿命化ではなく、建て替えという話に至った、と。

粟國 旧・市場を設計した方というのは、マチグヮーに住んでいたこともある方で、商売人の視点を取り込んで設計されたものだったんですね。だから非常に機能的だし、文化的な価値もあるし、愛着ある市場だったんです。だから、建て替えてしまうことには正直なところ抵抗があって、2019年の一時閉場セレモニーのときは、本当に複雑な思いでした。僕が思い描いていたのとは違う方向に進んでしまったということで、ほんとに複雑でしたね。しかも、市場を建て替えるためには、アーケードを撤去しないといけない、と。現在のアーケードは、建築基準法や消防法からすると不法なアーケードではあるんですけど、商売人の先輩方が「ここでアーケードを作らないと、街全体に活気が出ないだろう」と、一生懸命作ったものなんですね。役所に乗り込んで、現場レベルで頑張りながらどうにか作り上げたアーケードを、市場の建て替え工事のために外さなければいけない、と。だから、2019年の一時閉場セレモニーのときは複雑な思いがありましたね。

橋本 一時閉場セレモニーは、これで市場がなくなってしまうと勘違いされてるんじゃないかというぐらい盛大なセレモニーだった記憶があるんです。それとは対照的に、セレモニーの翌日からは通りが閑散としていたのが印象的でした。公設市場がシャッターをおろしたままの状態になったことで、人の流れが如実に変わったんですよね。当初の予定だと、2022年の春に新しい公設市場がオープンするという話でしたけど、建て替え工事の3年間というのは激動の時代になるんじゃないかと思って、「その期間をしっかり記録しておかなければ」と取材を続けることにしたんです。それが今回の『そして市場は続く』という本にまとまったんですけど、この取材をしているあいだ、粟國さんが一時閉場セレモニーのときにおっしゃっていた言葉のことを、ずっと考えていたんです。あの夜、「公設市場と周辺事業者は運命共同体です」と、粟國さんはおっしゃってましたよね。粟國さんは第一牧志公設市場の組合長という立場ではありますけど、公設市場のことだけに言及するのではなくて、周辺事業者も含めて「運命共同体」だとおっしゃったのはなぜですか。 

一時閉場を迎えたあと、市場で働く皆さんはお茶で乾杯。

粟國 たしかに、自分は公設市場の組合長という立場ではあるんですけど、公設市場だけが単体で存在しているわけではないんですね。平和通りや市場本通り、市場中央通り――他にもいろんな通りがある。公設市場をひとつの核として、一帯に広がるエリアが「市場」なんです。その核となる第一牧志公設市場が、建て替え工事のあいだは仮設に移転するとなると、周辺事業者は相当不安に感じるはずだし、リスクもかなり高いはずなんです。建て替え工事が始まるとなれば、色々大変な面もあるけど、「3年後に市場が同じ場所に戻ってくるんなら、ぜひ協力しようじゃないか」と言ってくださる方が多かったんですね。だからあのとき、「運命共同体」という言葉が出たんです。 

橋本 一時閉場セレモニーの2週間後には、にぎわい広場があった場所に仮設市場がオープンしました。もとの市場から100メートルしか離れていない立地ではありますけど、やはり以前に比べるとお客さんの入りが少なくなった感じがあったと思うんです。それに加えて、半年後にはコロナ禍に突入して、最初の緊急事態宣言が出たときには公設市場もクローズすることになりました。コロナ禍には人が密集する場所が敬遠される状況になって、マチグヮー全体がどこか閑散としていた時期もありましたよね。この建て替え工事の数年間というのは、70年以上の歴史の中でも、かなり特殊な期間だったんじゃないかなと思うんです。

粟國 仮設市場というのは、もともと第二牧志公設市場があった場所なんですね。ここに移転するかどうかで、半世紀前に大問題になった場所でもあるんです。だから、大先輩からは「あの場所は地の利がないから、かなり厳しいよ」ということは聞いてましたので、そこで仮設市場として営業するのはリスクがあるということは、わかってはいたんです。そこにコロナ禍が重なって、今まで経験したことがないような事態にって、国際通りも含めて誰も歩いていないような状況になったんですね。新しい市場ができるまで、はたしてもつんだろうかという不安は正直言ってありました。事業を継続させるにはどうすればいいのか、とにかく奔走したんですけど、これほどキツいことは今までなかったですね。


「県民の台所」という言葉が指し示すもの


橋本 人通りが途絶えたマチグヮーの様子を目の当たりにしたとき、「県民の台所」という言葉のことを考えていたんです。第一牧志公設市場が一時閉場するとき、新聞やテレビでは「県民の台所」という言葉が枕詞のように使われていましたよね。その言葉は、まだスーパーマーケットが存在しなかった時代に、県内各地から買い物客が集まってきた場所だということで、「県民の台所」と呼ばれているんだとは思うんです。ただ、ずっとマチグヮーで取材を続けていると、それだけじゃない部分を感じるんですよね。話を聞いていると、やんばる出身の方や、糸満出身の方、あるいは離島出身だという方も多くて、戦後間もない時期に「きょうだいを食べさせていくために」と那覇に働きに出て、それから50年、60年働いてきたんだという方がたくさんいらっしゃるんです。このマチグヮーという場所は、県内各地からいろんな方達が集まってきて、戦後復興の時期に働いてきた場所でもあるんだな、と。 

粟國 この『そして市場は続く』でぜひ確認してもらいたいのはですね、那覇人(なはんちゅ)って意外と少ないんですね。戦後復興の時期に、とにかく生活していくために、県内各地から人が集まってきた。その中でもメインになったのが女性――アンマーたちなんですね。この場所は、戦後復興を支えたアンマーたちが働いてきた場所なんです。そうやってこの場所を作りだした先輩方がいたから、われわれは現在生きているんですね。それをどのように繋いでいくかという思いで、組合長をやっているんです。

橋本 前に粟國さんにお話を伺ったとき、「マチグヮーはまだ戦後処理が終わってないんですよ」とおっしゃってましたよね。迷路みたいに入り組んだ路地が広がっているのは、戦後間もない時期に自然発生的に商店街が誕生した名残りでもあるわけですよね。そう考えると、マチグヮーの街並みというのは歴史が刻まれた場所なわけですから、これを「処理」してしまうのではなくて、貴重な遺産として残してほしいなと思います。

 

粟國 そうですね。今、水上店舗の組合長が、「この建物を文化財として登録したい」という方向で動いているんですけども、マチグヮーにはそれだけの価値があるんです。新しい公設市場の屋上から街並みを眺めると、やはり戦後の闇市の名残りが感じられるんですね。だから、単なる建て替えではなくて、マチグヮーの面的な価値――戦後の復興を支えた闇市的な空間を持続的に残していけたらいいな、と。 

橋本 ただ、その一方で、時代が変わってきているところもあるわけですよね。70年代から80年代にどうにか整備されたアーケードも、再整備にあたって「法律に適していない」と判断をつきつけられている、と。ただ、この土地に刻まれてきた歴史のことを考えると、マチグヮーに合わせたルール作りがあってもいいんじゃないかという気がするんですね。たとえば、軒先に商品をはみだして並べているお店もたくさんありますけど、これにも歴史的な背景があるわけですよね。水上店舗にしても、もともとはガーブ川沿いに露天商が立ち並んでいたところから出発して、一軒ずつの間口が狭いし奥行きもないから、どうにか生きていくために、軒先にはみ出して商品を並べてきた、と。そうすると、雨と陽射しを遮るものが必要になって、昔はテントを渡していたところに、70年代から80年代にアーケードの整備が進められていく。そういう歴史的な背景があるからこそ、「やはりマチグヮーにはアーケードが必要だ」という話になる。時代が移り変わっていくなかで、マチグヮーらしさをいかに残していけるかは大きな課題だと思うんです。

 

戦後復興を支えた空間をいかに残すか

 
粟國
 マチグヮーらしい魅力ある空間を、どのように継続すればいいのか。ハード面から言いますと、これからは再開発の時代ではないと思っているんですね。栄町市場の方とも最近よく話しているんですけど、とにかく修復型のまちを目指すべきではないのかな、と。アーケードに関しても、確かに不法ではあるんだけども、これは単に雨や陽射しを遮るだけじゃなくて、マチグヮーをつなぐ役割を担っているんですね。これを今後残していくためには、ソフト面での議論が大切になってくる。市民の方や観光客の方に、このマチグヮーにはどんな歴史があって、どうしてこういう街並みになっているのか、これを持続的に発信していくことが大切だと思うんですね。

橋本 粟國さんは以前、「公設市場の建て替えが、パンドラの箱を開けたところもある」とおっしゃってましたけど、たしかにパンドラの箱を開けてしまったところもあると思うんです。水上店舗というのは、公設市場より古い建物ですし、マチグヮーには古い建物がたくさんあって、これを今後どうするのかという議論にも当然繋がってくるわけですよね。この街並みというのは、ただ歩いているだけでも戦後復興の時代を感じ取れる貴重な場所だと思うんです。僕が普段住んでいる東京でも、たとえば新宿の思い出横丁も戦後の闇市に起源を持つ場所ですけど、海外からの観光客がひっきりなしに行き交っているんです。このマチグヮーも、観光資源として貴重ってだけじゃなくて、地元の方にとっても歴史を感じられる場所だと思うんです。それを今後どう残していけるのがポイントなのかな、と。 

水上店舗(左側に続くビル)はゆるやかにカーブしており、
現在も地下を流れている川の流れを感じさせる。

粟國 今、沖縄全体で「沖縄らしさがなくなってきてるんじゃないかねー」「あまりにも本土化しすぎたんじゃないのかねー」という話があると思うんですけど、このマチグヮーエリアに関しても、どのように街並みを残していくか、そろそろ考え始めないと、あれよあれよと失われてしまうんじゃないか。僕は昔、桜坂方面でよく飲んでいて、20代の頃に良い勉強をさせてもらったんです。桜坂は本当に面白い場所だったし、文化的な価値もあるところだったんですけど、今はもう、ほとんど駐車場とマンションになってしまった。10年ぐらい前から「桜坂の文化的な価値は大切にしないといけないねー」と、飲みながら議論はしてきたんですけど、結局残すことができなかった。那覇のマチグヮーも、この街並みをどう残していくのか真剣に議論していかないといけないなと思いますね。 

橋本 マチグヮーの中でも、この4年のあいだに更地になった場所もあれば、駐車場になったところもありますし、19階建てのマンションの建設も始まりました。この4年で、ただ公設市場が建て変わったというだけではなくて、刻々と街が変化しているのを感じます。 

ビルの上からマチグヮーを見下ろすと、アーケードのテントが見える。

粟國 今、マチグヮー全体が大きな分岐点に立っていると言えるんですね。僕は今49歳ですけど、マチグヮーはテーマパーク的な要素があって、ほんとに楽しい空間だという記憶があるんです。「パフェを食べるならこのお店」とか、「映画だったら國映館」とか、「ボウリングするなら国際ショッピングセンター」とか、「カツアゲされるんだったらショッピングセンター裏」と(笑)

橋本 カツアゲされる場所も決まっていたんですね(笑)

粟國 もう、決まった人がそこにいるんですよ。40代、50代だとね、初めて会う方ともこういった話で盛り上がるんです。そういう思い出が詰まった場所だったんですけど、そういうストーリーを繋ぐことができる場所が少なくなってきたことで、市民や県民の方がマチグヮーから足が遠のいているのかな、と。ちょっと今、40代や50代であればマチグヮーの良さを知っている方が多いんですけど、その次の世代に対して、どのようにマチグヮーの価値を伝えていけるのか、重大な局面に入っていると思うんです。今回の第一牧志公設市場の建て替えを機に、街の価値を市民・県民の方と共有する場をどのように設けていけるのか。その意味でも、『そして市場は続く』という本をぜひ読んでいただきたいなと思いますし、自分としても「マチグヮーというのはこういうストーリーがあるエリアなんだよ」ということを伝えていかないといけないなと思いますね。

 

市場の魅力は人に尽きる


橋本
 次の世代に繋ぐという意味だと、コロナ禍を機にお店を畳まれる方もいて、いっときマチグヮーには空き物件の貼り紙がたくさん貼られていた時期もありましたよね。老舗が閉店するのは寂しいことではあるんですけど、その一方で、空き物件だったところで内装工事が始まって、若い世代の方が始めたお店も増えてきています。さっき市場本通りをぶらついていたら、「ひらやーちー巻き専門店」という看板を掲げたお店の内装工事を見かけて、おお、こんなお店ができるんだと思いながら眺めていたんです。新しくなった公設市場も、結構新しいお店が入居されていますよね。

粟國 今回、9店舗が新しく入っているんですね。新しいお店もありながら、老舗もあるというのがマチグヮーの良さでもある。今、一番問い合わせが多いのは、「冷しレモンのお店はいつ開くんですかね?」ということなんです。

旧・市場時代の「コーヒースタンド小嶺」。5月22日に営業を再開した。

橋本 「コーヒースタンド小嶺」さんですね。この2年は体調を崩されて、お店を休まれていましたけど、沖縄タイムスにも「5月にも営業再開へ」と記事が出てました。

粟國 市民・県民の方だけじゃなくて、観光客の方からも問い合わせがあって、いろんな世代の方から尋ねられるんですね。聞いたら、皆思い出があるみたいなんですよ。那覇のマチグヮーにきたときに、小嶺さんの顔を見ながら冷しレモンを飲んだ、と。そこに何かあるんでしょうね。そういうお店を今後どう増やしていくのかが鍵になるのかな、と。もうひとつ、もしかしたらこのエリアには、多国籍な専門店が増えていくんじゃないか。現時点でも、ネパールカレーが評判の店もあるし、ネパールやベトナムの方が働いているお店も増えているんですね。そうすると、僕が山城こんぶ屋でスンシーを売っていると、ネパールの方が買いにくるようになったんです。聞いてみたら、ネパールでもスンシーを使った郷土料理があるらしいんですね。

橋本 海外から移り住んだ方が市場でスンシーを買っていくというのは、新しい流れですね。

粟國 僕の予想だと、5年後、10年後には世界各国の専門店が集積していくんじゃないかと思うんですね。僕はよく「マチグヮーは生き物だ」と説明するんですけど、そうやって予測もできない方向に変化していくというのは、生きている証拠なんです。マチグヮーはなはんちゅだけではなくて、県内各地から人が集まってきた街だから、もともと多様性がある街なんですね。多様性があるということは、いろんな価値が結びつくということだから、多様性が持続する街であれば、マチグヮーの魅力も続いていくんじゃないか。

2023年3月19日、市場がリニューアル・オープンした日は、多くの来場客でごった返した。

橋本 ここ最近は、「観光向けの市場になっているんじゃないか」という指摘もあって、地元か観光かという議論もあったと思うんですね。そこにコロナ禍が到来して、境界線が際立ってしまった時期もあると思うんです。ただ、さっき粟國さんがおっしゃっていたように、いろんな土地からやってきた人が一緒に働いてきた歴史があるわけですよね。だから、この『そして市場は続く』という本の取材をするときも、県内出身の方だけじゃなくて、県外出身の方や、あるいは海外出身の方がマチグヮーで始めたお店も取り上げたいと思ったんですよね。あるいは、何十年と続く老舗を取材しつつ、新しくオープンしたお店も取材したい、と。ここが戦後の闇市だった時代には、物資がないなかで「何かお客さんに喜んでもらえる商品を作り出したい」と、いろんな工夫をして商売を始めた方がいるわけですよね。冷しレモンというのも、そういった流れの中で生まれたものだから、今この時代に新しい名物を考案するお店が出てきたんだとしたら、「昔はそんな商品なかった」と否定するんじゃなくて、それを面白がれる自分でありたいな、と。もちろん、昔は存在しなかったものを「那覇の伝統的な名物です」と売り出してしまったらよくないですけど、新しいものが絶えず生まれていくのが市場の魅力なんじゃないかと思ったんです。

粟國 そうだと思いますね。あと、市場の魅力というのは、人に尽きるんですよ。昨日、市場の先輩と飲みに行ったんですけど、「粟國君、相対売りというのは何だと思う?」と聞かれたわけです。「相対売りというのはね、人だよ」と。「人が豊かだから、お客さんがきてくれるんだよ」と。この先輩って、お客さんと接するときに、はっきりしゃべるんじゃなくて、ちょっと何を言ってるのかわからないようなことを話すんですけども(笑)、それでもお客さんは喜んで買い物していく。だから、やっぱり、お客さんは人に会いにくるんですね。品物もジョートーなんだけど、人に会いにくるというのが大きいんです。この『そして市場は続く』を読んでいても、人が魅力なんだということは伝わると思うんですね。だから、人に会いにマチグヮーに足を運んでもらえたらなと思いますね。


 
(2023年4月30日 ジュンク堂書店那覇店にて)


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