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上原パーラー

 初めて沖縄を訪れたのは、10歳の春だった。つまり、今から30年前だ。

 古いアルバムをめくると、初めての沖縄に浮かれ、ピースサインをする自分の姿が写っている。玉泉洞やひめゆりの塔、旧海軍司令部壕、再建されたばかりの首里城、嘉手納基地、万座毛――2泊3日の旅程で、沖縄各地を巡っている。記憶に残る光景はたくさんあるけれど、何より印象的だったのは沖縄のあじだ。たぶんきっと、沖縄料理も食べたのだろうけど、小学生だった私が惹かれたのは、もっとシンプルなものだった。

 ひとつは、サトウキビ。どこかでサトウキビ畑を目にしたのか、あれを齧ったらどんな味がするのだろうかと興味を抱いた。そのあとで牧志公設市場に立ち寄ると、サトウキビがそのままで売られていた。他にもたくさんフルーツが並んでいたけれど、サトウキビの味が知りたくなって、親にねだって買ってもらった。ひとくち齧ると、繊維の奥から、ほんのりと甘い汁が染み出してくる。このほのかな甘さが、あんなに甘い黒糖になるのはどういうことだろうと不思議に思った。サトウキビは繊維が硬く、そのうち顎がくたびれてきたけれど、ねだって買ってもらった手前、しばらく齧り続けていた。

 もうひとつ印象的だったのは、ステーキ。ステーキというだけでもご馳走なのに、鉄板皿で運ばれてくるステーキなんて食べたことがなかった。店内のウェスタンな雰囲気もあいまって、興奮しながらステーキを頬張った。すっかり圧倒されてしまって、お気に入りだった阪神タイガースの帽子を忘れてしまったことと一緒に、記憶に刻まれている。あのステーキ屋があった場所は今、別のステーキ屋になっている。



 沖縄に通い始めて10年になる。

 はじめの5年は、ひとりの旅行客として、年に数回ずつ足を運んでいた。あとの5年は取材者として、月に1度は沖縄に通うようになった。足繁く通うなかで、少しずつ沖縄のあじに馴染んでいった。

 大人になると、こどもの頃以上に、沖縄のあじに興味がわいた。昔ながらの食堂で食べる、ちゃんぽんやチャンプルー。浜辺のおそば屋さんの、ゆし豆腐そば。パーラーのタコライス。居酒屋に入れば、スクガラス豆腐や豆腐餻をツマミに泡盛を飲んだ。広島に生まれ育ち、現在は東京に暮らしている私にとって、「沖縄料理」は新鮮なものに感じられた。せっかくだからと、短い滞在に予定を詰め込んで、お腹がはちきれそうになるまで沖縄のあじを平らげた。

 沖縄を取材するようになって、通う頻度が増えるにつれ、過ごし方も変わってくる。沖縄に滞在することが日常になって、朝はここ、昼はここ、夜はここと、決まった店に通うようになった。すると、私の目にも変化が生じてくる。最初のうちは料理や食材にばかり目を奪われていたけれど、食材をつくる人や、料理をつくる人の姿に目が向くようになった。

 沖縄を語るとき、使われがちな言葉がいくつかある。たとえば、「ゆっくり」。沖縄ではゆっくり時間が流れ、のんびりしている――といった表現を、しばしば目にする。でも、取材で出会う人は皆、「ゆっくり」、「のんびり」とは対照的に、いつも忙しそうに働いていた。どうしてそんなにと尋ねたくなるほど仕事熱心だった。その姿を目にしていると、私が何気なく口にする一皿にも、その向こう側には膨大な時間が横たわっているのだと気づかされた。

 沖縄には独自の文化があり、料理がある。その料理は、模範となる教科書をもとにつくられたものではなく、繰り返される日々の営みのなかで形づくられてきたものだ。ひとつひとつの料理は、上の世代から下の世代へと引き継がれ、今日に至っている。言葉で書くのは簡単だが、「引き継いだ」と言えるようになるまでには、膨大な時間が必要になる。日に3度、何度となく料理は作られ、誰かの腹を満たしてきた。その繰り返しの中で、沖縄のあじは継承され、時に変化し、今日に至っている。私が何気なく食べている料理は、一体どれほど多くの手を経てきたのだろう。

 その途方もなさに思い至ったとき、沖縄のあじを支える毎日の営みを書き留めておきたいと思うようになった。

 



 那覇に「開南」というバス停がある。

 ここを通りかかると、ベンチにはいつもバスを待つ人の姿がある。このバス停はちょっとした丘のようになっていて、すぐ近くに「サンライズなは」というアーケード街の入り口がある。ここから緩やかな坂道を下っていった先が、「マチグヮー」と呼ばれているエリアだ。マチグヮーとは、市場を意味するうちなーぐちだ。戦前まではのどかな湿地帯だったところに、終戦後に闇市が誕生し、自然発生的に商店街が形成されていった。戦後の復興期を知る人たちに話を聞くと、「あの頃はもう、まっすぐ歩けないほど賑わっていた」と、皆が口を揃えて振り返る。昔は沖縄各地から買い物客が詰めかけて、大変な賑わいだったそうだ。その玄関口が、開南のバス停だったのだ。

 県内各地にスーパーマーケットがオープンするにつれ、昔ほどの賑わいはなくなって、代わりに観光客が行き交うようになった。ただ、今でもマチグヮーは昔の面影を残している。そのひとつが、お昼時が近づいた太平通りに、惣菜が並び始める光景だ。手頃な価格のお惣菜を求めて、地元の買い物客が通りを行き交っている。この太平通りの入り口にあるのが、「上原パーラー」である。

 朝5時、店主の知花美智子さんがシャッターを上げる。エプロンをかけ、レースの頭巾で髪を覆うと、さっそくお米を研ぎ始める。3台並んだ一升炊きの炊飯器のうち、1台にお米をセットし、スイッチを入れる。一息つく間もなく、冷蔵庫から食材を取り出し、惣菜の支度に取り掛かる。


「仕込みはね、前の日のうちに全部やってあるんです」と、美智子さん。「もう、ルーティンって言うの?――やる順番も全部決まってる。自分だけ難儀するのも大変だから、誰かに任せようと思うこともあるけど、それだと出来上がる時間が遅くなる。だから結局、誰かが出勤してくる前に、自分でやってしまうわけよ」

 支度をしていたところに、エプロン姿の女性が「おはよう」と顔を覗かせる。開南せせらぎ通りを挟んだ向かい側にある、のうれんプラザにお店を構える女性だ。手には立派な大根と、アイスコーヒー。美智子さんが注文しておいた野菜を届けるついでに、のうれんプラザの喫茶店から運んできてくれたのだ。朝に1杯だけアイスコーヒーを飲むのも毎日の決まりなのだという。

 のうれんプラザは、再開発を経て2017年にオープンした施設だ。かつてそこには、バラック建の農連中央市場があった。農連中央市場は、農家が作物を直接販売できる市場で、1953年に開設されている。市場と言っても、競り市場ではなく、農家と買い手が直接交渉して価格を決める「相対売り」が特徴だった。

「あの頃の農連市場は、夜中から賑わってましたよ。夜中2時ごろにはもう、ワイワイワイワイ。そこで野菜を売っているおばちゃんたちが、朝5時ごろになると、朝ごはん食べにくるんですよ。だから、このあたりには朝早くからオープンするお店がたくさんありました」

 再開発を経て、のうれんプラザの中に相対売場が引き継がれ、明け方から野菜が並んでいるけれど、朝5時に朝ごはんを求めるお客さんは少なくなった。ただ、市場に野菜を買いにきたお客さんや、仕事前に立ち寄ってくれるお客さんがいるから、美智子さんは今も夜明け前に仕事を始める。

 まだ外は真っ暗だ。開南せせらぎ通りを行き交う車の姿もなく、あたりは静まり返っている。「上原パーラー」の店内には、テレビもなければラジオもなく、換気扇と扇風機の音だけが響いている。

「うちには何にもないから、世の中の様子も何にもわからないんですよ。それで困るのは台風情報だったけど、今はケータイが教えてくれる。ほんとに、ただ一日、一日を過ごすだけ。世の中のこともわからないし、人に言えるような話もなくて、ただ毎日こんなして働いて、ああ、今日も仕事が終わった、って帰る。その繰り返しよ」

 毎日5時から働いている美智子さんが、「もともと、朝は強くないんですよ」と言うので、意外な感じがした。寝ようと思えばいつまでも寝ていられるタイプだけど、どうにか体を起こして職場にくれば、しゃきっとスイッチが入るのだ、と。

 美智子さんは1958年、3名きょうだいの末っ子として生まれた。実家があるのは読谷村で、海が遊び場だった。

「残波岬もすぐ近くだし、学校が終わると、いつも海で遊んでましたよ。かといって、泳げるわけじゃないよ。ただ海でバシャバシャするだけ。夏休みなんかでも、ラジオ体操が終わったらすぐ海に行って、貝殻を拾ったり、シーグラスを拾ったり。台風のときはさ、防波堤を超えて、波がバッシャーンってくるわけよ。あのころは危ないっていうのがわからなくて、波がバッシャーンとくるのをただ面白がっていた」

 ほら、うちは村一番の貧乏だったから。美智子さんは当時を振り返ってそう語った。その言葉をそのまま受け取るのは失礼な気がして、「いえいえ」と首を振ると、「いや、ほんとに貧乏だったのよ」と美智子さんは言葉を重ねた。

「うちの親父は、ものすごい酒飲みだったわけ。こどものときはもう、おうちでゆっくり寝たことがないぐらいだった。親父のぶんまでお母さんが働いて、力仕事もやって――だからもう、私のお姉さんは、中学を卒業するとすぐに那覇に出て、働き始めたわけよ」

 美智子さんの姉・玉里幸子さんが最初に勤めたのは、那覇の食堂だった。そこで料理を学んだのち、幸子さんは「上原パーラー」で働き始める。そこは店名の通り、上原文子さんが夫婦で切り盛りしているお店だった。当時はパーラーだけでなく、隣で食堂も営んでいたそうだ。やがて上原さん夫婦は引退し、幸子さんが「上原パーラー」の部分を引き継ぐことになった。ひとりで切り盛りするのは大変だからと、妹の美智子さんも一緒に働くことになったのだ。

 パーラーというのは、沖縄ならではの文化だ。アメリカ世の名残りで、県内各地に「パーラー」と看板を掲げるお店がある。沖縄そばを出すところもあれば、タコライスを出すところもあり、ぜんざいなど冷し物を出すところもある。扱う料理はさまざまだが、基本的には軽食を出している。テイクアウトが基本だが、イートインできるお店もある。

「上原さんがやっていたころだと、ソフトクリームだとか、サンドイッチとか、アメリカンドッグを売っていたんですよ。当時から天ぷらは出してたけど、今みたいに惣菜は出してなかった。でも、私、出しゃばりだからさ、『ボロボロジューシー作ろうよ』とか、勝手にやりだしたわけ。お姉さんのお店なのにね。出してみたら、すぐ売れる。これが定着して、今のラインナップになっている」

 美智子さんが「勝手にやりだした」料理は、どれも昔から食べ馴染みのあるあじ――つまり家庭料理だった。そのひとつが、そうめんチャンプルである。

 鍋に湯を沸かすと、島原手延素麺を20束、ばらりと鍋に入れる。素麺を湯がいている間に、隣のコンロにフライパンをかけ、ニラとにんじん、それにマグロフレークを炒める。頃合いを見計らって素麺を湯ぎりし、流水で締めたのち、水気を切ってフライパンに投入する。油を少しまわして、調味料で味をつけてゆく。

「私の料理は、昔から食べていたのを、美味しく作るだけ。自分の料理というのはあるんだけど、主婦の料理だからさ、形にはめないんですよ。『お母さんの料理は、どうやって味付けしてるのかわからん』って、娘たちがよく言うわけよ。そうめんにしても、昔はただ素麺を炒めただけだったけど、ちょっとニラとにんじんを入れてみようか、って考えたりしてね。自分が食べて美味しいと思ったものは、人にも食べてもらいたいって気持ちはある。ちょっと辛いの入れてみたり、アレンジして。これが皆に受けるかどうかわからないから、いちど並べてみる。1回目は買ってくれるけど、2回目はどうか、反応を確かめるわけよ」

 そうめんチャンプルが出来上がると、次はカレー作りだ。沖縄らしい惣菜が並ぶ「上原パーラー」だが、ここのカレーはネパール風だ。以前アルバイトをしていたネパール人留学生の作るカレーが美味しくて、レシピを教わり、数年前からラインナップに取り入れたのだ。まずはたまねぎを炒めて、クミンとターメリック、塩を振り、トマト缶を投入する。カレーを煮込んでいる間に、美智子さんは細かく切った芥子菜をフライパンで炒める。芥子菜は「島菜」(シマナー)とも呼ばれ、沖縄では定番の食材だ。程よい辛みと独特の香りが食欲をそそり、炒め物や漬物に用いられる(塩漬けにしたものは「チキナー」と呼ばれる)。さっと炒めると、ボウルに移し、扇風機の風を当てる。「すぐ色が変わってしまうから、扇風機で冷まさんと」と、美智子さんが教えてくれた。この辛子菜炒めは弁当のつけあわせにする。

 炊き込みごはんの「ジューシー」と、雑炊ふうの「ボロボロジューシー」。マグロを昆布で巻いて炊き上げた「こんぶ巻き」。切り干し大根と千切り昆布、それに椎茸を炒め煮(イリチー)にした「せんぎり」。いろんな料理を並行して調理しているうちに、外は明るくなってくる。

 6時35分。ひとしきり惣菜を調理し終えると、美智子さんはフライヤーに火を入れた。冷凍庫から、いかすり身串や枝豆入りいかのり巻き、それにミニハンバーグの袋を取り出し、フライヤーで揚げる。いかのり巻きとハンバーグはお弁当のおかずだ。

 この日は大型の台風が沖縄本島に接近しつつあった。南東から6メートルの風が吹き、ちょうど厨房にむかって風が吹き込んでくる。ただ、強い風が吹いていても、フライヤーの油と、コンロの熱と、炊飯器から噴き出す蒸気で、かなりの蒸し暑さだ。冷房はなく、扇風機は全部で4台置かれているが、汗が噴き出してくる。手拭いで汗を拭って、揚げたてのいかすり身串を店頭のショーケースに並べていると、原付を押した男性が通りかかった。

「おはようさん。まだ何にもない」

 美智子さんが笑顔で声をかけると、男性はいかすり身串を一本買い求めて、原付で走り去ってゆく。これが今日のミーグチだ。ほどなくしてパートの女性がやってきて、エプロンをつけてキャップをかぶり、そうめんチャンプルをパックに詰めてゆく。人手の足りない朝の2時間だけ、働いてもらっているのだそうだ。

 パック詰めをパートさんに任せて、美智子さんはいよいよ天ぷらに取りかかる。昨日のうちに仕込んでおいた、天ぷらのタネを冷蔵庫から取り出す。大きなタライに、細切りにした玉ねぎとにんじん、それにニラが入っている。そこに塩を振り、しっかり揉み込んで味を馴染ませる。そこに卵を割って落とし、メリケン粉をまぶし、しっかり混ぜておく。これを揚げればやさい天になり、そこにもずくを混ぜれば「もずく天」、ごぼうを混ぜれば「ごぼう天」となる。

「沖縄の天ぷらは、内地の天ぷらとはまた違いますよね」と、美智子さん。「ごはんのお供にっていうわけではなくて、おやつ感覚。ちょっと小腹が空いたら、天ぷらでも買って食べようかねーって、そういう感じよ。衣も厚いし、メリケン粉も一杯。イカと魚と野菜とお芋、この4種類が主流で、あとは『こんなの天ぷらにしてみたらどうだろう?』って考えて、もずくを出してみたり、ヨモギを出してみたり。内地みたいにきれいにやっているわけじゃないからさ、その季節に入ってくる野菜で作るわけ」

 とっ、とっ、とっと、やさい天のタネを油に入れる。こんがりきつね色になるのを見計らって、網杓子でバットに移す。今度は刻んだもずくをタネに混ぜ、もずく天に取りかかる。そこ南風原の豆腐屋さんがやってきて、出来立ての豆腐を届けてくれる。この豆腐は、そのままフライヤーに入れて素揚げする。この揚げ豆腐も、そして天ぷらも、沖縄では行事に欠かせない食材で、仏壇に供える重箱料理に用いられる。お盆やお正月には飛ぶように売れるが、普段から食卓に並ぶことが多く、よく売れるそうだ。

「おはようございます!」と、元気のよい挨拶とともに入ってきたのは、美智子さんの娘だ。それからしばらくすると、美智子さんのお兄さんもふらりとやってきて、炊き上がったじゅーしーに、油でさっと炒めたねぎをまぶし、おにぎりにする。少し前までは姉の幸子さんと切り盛りしていたのだが、古希を迎えた幸子さんは「上原パーラー」を美智子さんに譲り、なかば引退した。それに代わるように、兄や娘、それに姉の娘たちが手伝ってくれるようになった。

 幸子さんが「上原パーラー」を引き継ぎ、美智子さんと姉妹で切り盛りするようになったころには、お母さんも読谷から手伝いにきてくれていたという。つまり、ここは昔からずっと、家族総出で切り盛りしてきた店だ。

 朝8時、軒先の蛍光灯をつけるころには、太平通りを行き交う人もすっかり増えてきて、「上原パーラー」の前に行列が出来始める。正式な開店時刻は、ぜんぶの料理が並ぶ10時だが、朝からずっと買い物客で賑わっている。美智子さんはずっとフライヤーの前に立ち、天ぷらを揚げ続ける。いか天、さかな天、ごぼう天、ゴーヤー天、えび天、いも天。フーチバーを使った「よもぎ天」を揚げると、厨房に爽やかな香りが広がる。なかには10個、20個と買っていく人もいて、天ぷらは揚げたそばから売れてゆく。

「いか、焼いてー」
「野菜ないよー」

 店頭から声がかかるたび、追加で揚げる。25キロのメリケン粉が、1日で空っぽになる。40年以上、ほとんど毎日天ぷらを揚げてきたけれど、「今日はうまくいかないねーって日も、やっぱりある」と美智子さんは言う。

 ふと店の外に目をやると、太平通りを歩いてきた観光客が、「上原パーラー」の前で傘をひらくのが見えた。いつのまにか雨が降り始めていたらしかった。70年代から80年代にかけて、マチグヮーにはアーケードが張り巡らされた。1975年、マチグヮーからほど近い場所にダイエーが進出し、大型ショッピングセンター「ダイナハ」が開業すると、顧客を奪われるのではないかと危機感を募らせた店主たちが資金を出し合い、それぞれの通り会ごとに独自のアーケードを整備したのだ。このアーケードは、太平通りの入り口にある「上原パーラー」の前で途切れている。さほど強い雨ではないのか、地元の買い物客は傘をささずに進んでゆく。外の天気に目を向ける暇もなく、美智子さんは天ぷらを揚げ続けていた。

「はい、終わり!」

 最後のさかな天を揚げ終えたのは、14時半。最初のやさい天を揚げたのは7時15分だったから、7時間以上経過している。その間、美智子さんはいちども休むことなく、天ぷらを揚げ続けた。朝5時に仕事を始めてからも、一度も椅子に腰掛けることなく、トイレにも行かず、何度か水を飲んだだけで、働き通しだった。

「ずっとずっと、天ぷら揚げてます」と美智子さんは笑う。「もう、大変ですよ。だってさ、やさい揚げて、いか揚げて、さかな揚げて――そしたらまた、『最初に揚げたやさいがないですよー』、『次、さかなお願い』って言われるから。でも、これでも仕事する時間は短くなったんですよ。お姉さんとやってたころは、夜7時まで店を開けてたから、6時ごろまで天ぷらを揚げていた。そのとき一度だけ、『まだ揚げる? 私、疲れているけど』って言ったことがある。でも、コロナになって、夕方5時にはきっちり店を閉めることにして、2時半で『はい、もう終わり!』って。やっぱり、娘たちと一緒にやるようになると、家庭もあるのに、6時、7時まで働かせるのは残酷なことだから。だからもう、早く帰るようなって、ちょっと楽」

 早くおうちに帰って、ドラマを観るのが楽しみなのだと美智子さんは教えてくれた。最近のお気に入りは、刑務所が舞台の海外ドラマ。自分の言いたいことを言い合う囚人たちの姿を見ていると、「私にはないことだから、息抜きになる」という。

 14時半に天ぷらを揚げ終えても、まだまだ仕事は残っている。次の日の仕込みもあれば、掃除もある。営業時間を3時間短縮したとはいえ、1日12時間も働いている。今のように天ぷらを揚げ続けるのではなくて、午前中のうちに決まった数だけ揚げて、品切れ次第終了とすれば、もうちょっと楽になるのではないか――?

「だけど、休みたいって、考えたこともないんですよ」と美智子さん。「やっぱり、お客さんがいるから。天ぷらが売り切れで、がっかりした顔は見たくない。てーげーにやってるけど、責任はしっかり持ってるつもり。それと、あとになって後悔するようなことはしない。たとえば、たとえばの話よ。もしもこっちにお金が落ちてたとして、とるか、とらないか。もしも届けずに済ませたら、届けなかった自分が絶対的に許せなくなる。何に対しても、その気持ちだけはある。なんて言うんだろ、馬鹿正直さはあるつもり」

 その馬鹿正直さを意識したのは、小学生のころだった。

 学校からの帰り道、同級生と一緒に歩いていると、そら豆が実っているのが目に留まった。それは初めて目にするそら豆だった。これを食べたら、一体どんな味がするんだろう。好奇心に駆られた美智子さんは、同級生と一緒に何房かもぎって持ち帰り、茹でて食べてみることにした。初めて口にしたそら豆の美味しさは、今も鮮明におぼえている。

 後日、「そら豆が盗まれた」という噂が広まった。あのそら豆は、自生していたものではなく、誰かが植えたものだった。黙っていればバレないかもしれないけど、自分がやったことを言わずにいるのは耐えられず、「私が食べました」と名乗り出た。大人になった今も、後悔するより馬鹿正直でありたいという思いが、美智子さんの中にある。

「私たちウチナーンチュの商売は、なんていうんだろう、お金を取って終わりじゃないんですよ。人と人との関わりあいっていうのかな、昔の言葉で言えば、ユイマール精神。助け合う気持ち。お客さんが『美味しかったー!』って言ったら、こっちは『ありがとうー!』って、心の通じ合いが大事。みかん10個買ったら、『はい、1個シーブンね』って。今は薄れてきてるけど、そういうのがマチグヮーでの買い物だと思う。私だって、天ぷら揚げてると、千切れちゃってちっちゃい魚とかもあるわけよ。それを70円で売るのは申し訳ないから、何個か買ってくれたお客さんに、シーブンで入れておきましょうねーって差し上げる。私自身、昔から貧乏な生活で、贅沢な人間じゃないから、利益、利益とは考えてないんですよ。お給料を出して、仕入れのお金を払って、どうにかやっていければいいっていうのが私の考え方」

「上原パーラー」の天ぷらは、1個70円。ジューシーは2個170円、そうめんチャンプルは130円。物価高騰の煽りを受け、2022年に少しだけ値上げをしたけれど、どれも手頃な価格だ。

「たとえばカレーにしても、もっと野菜を入れたいなって気持ちはあるんですよ。ピーマンとかにんじんを入れたら彩りも良くなるし、もっと美味しくなる。でも、それだと値段が高くなるんですよ。レストランなら700円、800円出してもらえるかもしれないけど、マチグヮーに並べるなら、買い求めやすい値段がいいですよね。やっぱり、お客さんは毎日の顔なんですよ。毎日買いにきれくれる方がたくさんいるから、ちょっと美味しいのを、手頃な値段で食べてもらいたい。ずっと天ぷらあげてるから、表に出ていけないけど、ほんとは『あいー、元気ね!?』って話しかけたいさ」

 冒頭に記したように、このあたりは戦前までのどかな湿地帯だった。戦後に闇市が誕生し、マチグヮーはひとびとの生活を支える場となった。この界隈で働く人たちの中には、戦争未亡人も少なくなかった。ひとりで店を切り盛りし、朝から晩まで働いていると、料理を作っている余裕はなかった。だからマチグヮーには手頃な価格の惣菜が並んできたのだろう。重箱に詰める料理も、かつては家庭や集落でつくるものだった。それが、生活様式の変化によって、外で買い求めるものになったのだ。マチグヮーの商売は、時代の移り変わりとともにある。

 太平通りの入り口に、マンションの広告が出ている。地上19階建、全194邸の「リゾートタワーレジデンス」は、開南のバス停の近く、サンライズなは商店街の入り口に建設中だ。

 21世紀に入って、マチグヮーの風景は目まぐるしく変わり続けている。農連市場が再開発され、新天地市場がなくなり、第一牧志公設市場も建て替えられた。店主が高齢となり、昔ながらの商店が1軒、また1軒と閉じてゆく。美智子さんは今年で65歳になる。「何歳まで働けばいいんだろうって、常に思ってる」と美智子さんは言う。もう休んでもいいかなと思うけど、仕事してたほうが楽しいから、と。

 街も暮らしも、たえず変わってゆく。

 いつまでも美智子さんの揚げた天ぷらを食べていたいけれど、いつまでもなんてことはありえないこともわかっている。だから、那覇に滞在するときはいつも「上原パーラー」に通って、惣菜を買っている。あのマンションに入居する人たちも、毎日の顔になるといい。そんなふうに、少し先の未来のことを考えている。

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