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橋本倫史+宇田智子「市場に続いた三年九か月のこと」(後編)

「県民の台所」として知られる那覇市第一牧志公設市場は、2019年6月から半世紀ぶりの建て替え工事が始まりました。建て替え工事が始まって、風景が変わってしまう前に、今の姿を記録しようと、僕は2019年5月に『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)を出版しました。

 市場が一時閉場を迎えると、街の風景は想像した以上のスピードで変化していきました。市場は100メートルほど離れた仮設の建物で営業していましたが、人の流れが如実に変わってゆくのを感じました。

 その様子を目の当たりにして、建て替え工事期間の風景を記録に残さなければと、琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」と題した連載を始め、さらに「まちぐゎーのひとびと」と題したフリーペーパーを自分で発行し、毎月那覇に通いながら取材を重ねてきました。「まちぐゎー」とは、市場を意味するうちなーぐちです。

 その連載が『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(本の雑誌社)として一冊にまとまったことを記念して、公設市場の向かいで「市場の古本屋ウララ」を営む宇田智子さんと、ウララの軒先で対談を収録しました。公設市場が一時閉場を迎えてから、新しい市場がオープンするまでのあいだの、三年九か月のこと。

(前編はこちら


日記を書くということ


橋本 牧志公設市場のリニューアルオープンに合わせて、「市場の古本屋ウララ」では「おかえりなさい、公設市場」展が開催されました。これまで市場に通ってきた人たちが冊子やポストカード、グッズを販売するという企画で、それに合わせて宇田さんは『三年九か月三日 那覇市第一牧志公設市場を待ちながら』という冊子を作られています。これは市場が建て替え工事をしているあいだの日記をまとめたものですけど、宇田さんはずっと日記をつけているんですか?

宇田 市場のことに限らず、個人的な日記をいろんな形でつけ続けていて。全然書かない時期もあるし、何ヶ月も空いたりすることもあるんですけど、この4年間は意識して日記をつけようと思ったんです。あとはまあ、暇だったっていうのもあります。

橋本 暇だったというと?

宇田 コロナの状況になって、店を長く休んで暇になって、ただただ日記を書いていました。誰ともしゃべらないから、せめて書いておこう、と。でも、忙しい時期ほど空白だから、肝心なとこがわからないんですよね。市場がオープンした日のことも、結局日記は途中までしか書けなかったので、もう忘れかけていて。

2020年6月16日、一時閉場からちょうど1年後のまちぐゎーの様子。 

橋本 「市場の建て替え工事の期間はなるべく日記をつけておこう」というのは、理由がはっきりあることだと思うんですけど、ずっと日記をつけてきたっていうのはなぜですか?

宇田 やっぱり、忘れたくないんでしょうね。忘れてしまうと、その日自分が生きていたことがわからなくなってしまう――大げさに言うとそういう感覚があるんです。あとは、人からもらった言葉を書きたい気持ちがあって。友達が言ってくれた言葉とか、そのときはすごく嬉しくても、そのうち再現できなくなって、言いまわしとかもすぐ忘れてしまう。それを何度も思い出したいと思って書いていたのが、だんだん知らない人が街で話していた言葉を面白いと感じるようになって、電車でたまたま聞いた言葉とかも書くようになって。市場に来てからは、毎日そういう言葉が聞けるようになったから、それを書いてます。

橋本 じゃあ、宇田さんが原稿と書いている文章とも、そんなに遠くない感じなんですね。もちろん原稿を書くときは取捨選択があるとしても、耳にした言葉を記録に留めておきたいという気持ちが、原稿であれ日記であれ書く原動力としてある、と。

宇田 そうですね。原稿を書くことも、その延長線上です。

  

日記だから書き残せること


宇田 日記を本にしようとは、最初は全然考えていなかったんです。市場が一時閉場したあと、橋本さんは新報で連載することを決めて、私も「この期間を記録したい」と思ってある出版社に連載の企画を持ちかけたんですけど、「どういうテーマになるのか」とか色々言われたとき、うまく答えられなくて、「じゃあいいです」ってやめちゃったんです。ただ、他の連載で市場のことを書いたり、日記を書いたりしてきたから、市場のオープンが近づいたときに、自分も何か作らないとと思ったんです。ほんとは日記じゃなくて、ちゃんとした原稿として書きたくて、テーマ別に書き下ろそうとしていて。でも、それだとどうしてもうまく収まらなかったのと、やっぱり刻々と移り変わり続けたっていうのが一番面白いところだよなと思いなおしました。あとは今の時点で総括するより、そのときの気持ちをそのまま残しておきたいということで、日記のまま出すことにしたんです。ただ、日記って要点がないから、やっぱり読みにくいと思うんですよね。

 橋本 僕は誰かの日記を読むのが好きだから、要点のなさこそ面白いですけど、日記のような文章は読みづらいと感じる人が多いかもしれないですね。

宇田 橋本さんがまちぐゎーで聞き書きを始めたとき、最初はブログにすごく長い文章を書かれていましたよね。それを「必要な人が必要な部分だけを読む、市町村誌みたいなものかと思った」って話をしましたけど、自分の本もそういうふうになればいいかな、と。通読してほしいという気持ちもなくて、たまたま見つけた人が「何年何月頃のまちぐゎーはどんなだったかな」と調べたいときに、ああ、こんな感じだったんだと思ってもらえたら十分なんです。まあ、本に入れたのはごく一部なので、抜けている時期のほうが多いんですけど。

宇田さんの『三年九か月三日』は、2021年の後半が省略されている。
自分が撮った写真を見返しても、その期間は取材させてもらったお店の写真ばかりで、
街の様子をなんとなしに撮影した写真というのが少なかった。(2021年9月16日撮影)

橋本 宇田さんの日記の、2020年5月12日のところに、「『江島商店』さん(衣料品店)は店をやめてしまうらしい」という記述が出てきますよね。僕は2019年の秋に「江島商店」の取材したんですけど、コロナ禍になってから那覇にきてみると、シャッターが下りたままになっていたんですよね。シャッターが下りている状態だと、今は臨時休業されているだけなのか、それとも店を閉じられたのか、わからないんですよね。それがあるとき、新しいお店に変わっているのを目の当たりにして、「ああ、閉店されたんだ」と気づく。取材者という立場だと、やっぱり知れることには限界があるんですけど、宇田さんはずっとここに座っていて、日々書かれている日記だからこそ、「ああ、この時点で『閉店する』って話が出ていたのか」と知ることができる。

宇田 ただ、閉店したお店に関しては、名前を出して書いたんですけど、今も営業しているお店のことは、名前を出さずに書いたんです。そこがすごく中途半端だなと思うんですけど、私は許可を取らずに勝手に書いているので、書けなかったんですよね。許可をとりにいっても、「え、日記って何なの?」ってなるでしょうし。

 

書くことと、許可をとること


橋本
 不思議だなと思ったのは、たしかに名前を出すと書きづらくなる話題もあるとは思うんですけど、全然問題なさそうなやりとりについても、店名は伏せられてますよね。たとえば、仮設市場がオープンした2020年7月1日の日記に、2階の食堂街に上がった話が出てきますよね。「顔見知りの食堂の人に『忙しいですか』と聞くと『まだまだだね、工夫が足りない。西日よけの黄色い紙を貼ったりして、少しずつやっている』と話してくれる」と。これはきっと、あそこのお店の方が言った言葉だろうなと、想像はつくんですけど、ここは別に書いたところで怒られるようなやりとりでもないから、伏せなくてもいいんじゃないかという気もして。

宇田 そうなんですけど、「勝手に書かれること自体が嫌なんじゃないか」と思うと、誰にも怒られたくないという気持ちが強過ぎて、伏せてしまったんです。

市場の古本屋ウララの向かいには宝石屋さんがある。(2020年11月19日撮影)

橋本 こうして話していて気づきましたけど、言われてみると、宇田さんが普段書かれている原稿を読んでいても、たとえば「宝石屋さん」とか「鰹節屋さん」みたいに書かれることはあっても、店名や個人名が出てくることはないですね。 

宇田 さっき、橋本さんと武藤(良子)さんの対談を読み返してたんです。武藤さんが自分の『銭湯断片日記』について「普通に銭湯に通ってて、それを日記に書いただけだよ」って言っているのに対して、橋本さんは「最初から書くつもりで出かけているから、取材者として演技をしている」って話していました。だから、自分が住んでいる不忍界隈のことを取材し始めたけど、住んでいる場所でずっと演技をしているわけにもいかなくて難しい、と。それと同じと言えば同じで、普通に店をやって生活してるのに、いきなり「今の話、書いていいですか」とか言い出したら、皆もう会話したくなくなるんじゃないかと思うんですよね。自分も相手も店をやっているなかで、勝手に書くのはやっぱりよくないことなんじゃないかと、今回、本をつくりながらあらためて思いました。逆に、名前を伏せるのは後世の人に対してもよくないんじゃないか、とも。

橋本 ああ、なにか調べたいと思って宇田さんの本を手に取った人からすると、「これはどこの誰が言っていたのか?」というところがわからないということですね。じゃあ、今のうちに脚注付きバージョンをデータとしてまとめておいて、いつか完全版を出すといいかもしれないですね。

宇田 そうですね。20年後とかに増補改訂版を出すといいのかもしれないです。 

  

なぜ記録に残したいと思うのか


橋本 ちょっと前に、又吉直樹さんの新刊『月と散文』が出たんですけど、これがまさに「散文」ならではの面白さを感じる内容だったんです。人間の思考って、数秒前と今とでは全然違うことを考えたりしているものですけど、そういう自由さがありながらも、決して読みづらいということはなくて、すごく面白かったんですよね。でも、僕の取材原稿というのは、散文とは対極にある。もちろん、どんな話が聞けるのかは事前にわからないので、どんな話が聞けるのかは散文的なんですけど、それをひとつの原稿として編集することで、散文的ではなくなってしまうし、こぼれ落ちてしまうものがたくさんあって。『そして市場は続く』という本を出版できたときも、「これで記録に残せたから安心」とはならなくて、ここに記録できなかったことが膨大にあるなと思ってしまう。一時閉場セレモニーの翌日は「皆どこに行ったんだろう」と思っておきながら、僕は仮設市場がオープンした日を見届けてないし、『市場界隈』で取材した「大城文子鰹節店」が仮設市場の閉場とともに閉店されたということも、宇田さんから話を聞いて知ったくらいで、見落としているものが膨大にあるな、と。

役割を終えて、ひと気のなくなった仮設市場。(2023年3月18日撮影)

 宇田 そりゃそうですよ。橋本さんには取材している場所がいくつもあるわけですから、すべての場所に居合わせることはできないですよね。私はここ以外のどこにも行っていないからいつでも見られるっていうだけです。ここにずっといることで、さっき話したような不自由もあるけど、見ようと思わなくても見れる良さもある。その良さを、記録することにどう活かせるかはまた別の話なんですけど。 

橋本 記録しておきたいって気持ちも、不思議な感覚だなと最近考えるんです。今日の朝のニュース番組で、これから人口が減ると働き手が減って、日本の4割は人が暮らせなくなる可能性があるって報じられていて。これから人口が減っていくんだとすれば、日本語を読める人も少なくなるわけですよね。僕は「100年後の誰かが、今この場所のことを知りたいと思ったときのために、記録に残しておく」という気持ちがあるんですけど、はたして100年後に日本語を読める人がどれだけ存在するのか。そう考えると、100年後の誰かのために書いているわけじゃなくて、記録しておかなければ気が済まないだけなんじゃないかと思えてくるんですよね。

  

聞き書きの記録と、写真の記録


宇田 最近、垂見(健吾)さんの写真集『めくってもめくってもオキナワ』が出ました。この市場のあたりもたくさん写っていて、ここがスクガラス屋さんだったところとか、向かいの外小間に鰹節屋さんが5軒ぐらい並んでいるところが載っているんです。そういう写真を見ると、すごく感激しつつも、何に感激してるのか自分でもわからないんですよ。私はたまたまここにきて座っているだけなのに、その場所の40年前の姿を見て感動するって、どういう気持ちなんだろう。とにかく市場のページばかり見てしまって、「垂見さんがこうして撮っておいてくれて本当によかった」と思いました。

橋本 あの写真集は、ほんとにすごいなと思いました。僕が市場の取材を始めたときは、「写真には写らないものを記録しておかなければ」という気持ちでいたんです。たとえば、何十年前にここで商売をしていた人たちの姿は写真に残っているけど、その人がどんな人だったのか、どんなふうに過ごしていたのかは記録に残らないから、聞き書きをすることで活字に残さなければ、と。『ドライブイン探訪』以降、いろんな土地で聞き書きを続けてきましたけど、聞き書きでは記録できないことがあるってことを考えるようになって。 

市場の取材を始める前に偶然撮った写真に、小禄青果店が写っていた。
店頭に悦子さんの夫・幸雄さんの姿が見える。(2016年3月中旬撮影)

宇田 そうですね。写真はきっと、「その瞬間に撮った人がそこにいた」ってことなのかなと思ったんです。文章であれば、Zoomで話を聞いて、行ったことのない場所の話を記録に残すこともできますけど、あの写真集を見ると、垂見さんが何十年にも渡って市場に通ったんだってことがわかるわけですよね。

橋本 その人がどこの出身で、どういう経緯でこの場所で店を始めて、なぜその商売を選んだのか――そういうことを聞いていくと、あっという間に2000字ぐらいになる。琉球新報で連載していた「まちぐゎーひと巡り」は、文化面を大きく使って掲載してもらっていたんですけど、それでも文字数は2000字ぐらいだったんですよね。もちろん来歴は来歴として記録しておきたいと思うんですけど、そういう話だけをまとめていけばその店主の方を記録できたことになるのかというと、やっぱりそうじゃないよなと思うというか。

宇田 店の取材を受けるとき、「どうしてここで古本屋を始めたんですか?」って質問で終わってしまうこともあるんです。オープンして1年目の取材も、10年目の取材も同じような内容になるんだとすると、この10年間私がここにいたことはどうなるんだろう、と。だから、橋本さんが『東京の古本屋』で「3日間お店にいて、そこで起きたことを書く」って方法をとっているのを読んで、こういうスタイルで店の取材をするのもアリなんだなと思いました。

 

何を書けば「記録した」と言えるのか


橋本 さっきも少し話しましたけど、記録したいと思って取材を始めたはずなのに、記録すればするほど、追いつかなさを感じるところがあって。今日、前に第一牧志公設市場の組合長をされていた「さくら亭」の津波古政和さんの訃報に触れて、驚いたんです。つい半月前に那覇にきたとき、僕は「魚友」の軒先にあるテーブル席に座って、ビールを飲んでいたんです。そうしたら、仕事終わりの津波古さんが、外小間の「てるや」さんで菊の露のカップ酒を買って、椅子に座ってテレビを眺めながら飲んでいる姿を見かけていて。あるいは、「節子鮮魚店」の軒先にあるテーブル席で飲んでいると、仮設市場の2階のテラスみたいなスペースで一服している津波古さんの姿を見かけることもあったんです。直接面識はなかったんですけど、あるタイミングで「あの方が昔、組合長をされてた方なんだ」と知って、いつかお話を伺う機会はあるだろうかと考えていたんですけど、結局聞くことをしないままになってしまって。宇田さんの日記にも、記録しようと思って書き始めたけど、記録できたかどうかと言われると自信がない、ということが書かれていますよね。

新しくなった公設市場の外小間。(2023年4月7日撮影)

宇田 何を書いたら記録したと言えるのか、わからないじゃないですか。自分の主観でしか書けないし、いろんなトピックを取りこぼしているにしても、「この三年九か月のあいだも市場は動いていた」ということが書けただけでも十分のような気もします。一時閉場セレモニーにきて、次にきたのはオープニングセレモニーだった人にとっては、あいだの時期はなかったも同然かもしれないけど、そのあいだも市場は続いていたんだ、って。その期間は見ている人もほとんどいないような時期だったから、橋本さんがこうしてその時期を書いてくれてよかったなと思います。

橋本 使命感みたいなものは判断を誤らせるきっかけにもなるから、あんまり持たないようにしているんですけど、この期間の取材に関しては使命感みたいなものもあったような気がします。この4年のあいだに、すでに決まっていたはずの企画がひとつ消えたんです。それは沖縄に関係する企画だったんですけど、企画が消えた理由として、「コロナ禍になって、人が移動しづらくなったことで、沖縄に対する関心が薄くなっている」ということを言われたんですよ。一体この人は何を言っているんだろう、と。仮に沖縄に対する関心が薄くなっているのだとしても、そうであれば余計に企画を前に進めて、関心を向けるべきなんじゃないのかという気持ちになったんですよね。

 

なぜ見ようとするのか、なぜ見ようとしないのか


橋本 宇田さんの日記の中に、なぜ自分は見ようとするのか、なぜ他の人たちは見ようとしないのか、という問いが何度か登場しますね。その問いに対する、現時点での仮の答えみたいなものは宇田さんの中で見つかったんですか。

宇田 たとえば、松尾東線と松尾19号線のアーケードの撤去が始まった日は、橋本さんもほかの人たちも見ていたし、「ずっとここにあったアーケードが、撤去されるところを見届けたい」という気持ちでした。ただ、去年の11月に市場中央通りの仮設アーケードが撤去されるときは、雨の中で待っていたけど他に誰もいなくて。那覇市の人に「宇田さん、撤去するところ見るんですか」と聞かれて、「どうなんでしょうね」みたいな感じだったんです。仮設の屋根に思い入れがあるわけでもないし、設置されたときからいつか外されることがわかっていたものなのに、やっぱり見届けたい気がしました。ひとつは、「撤去する」とか「建て替える」とかって簡単に言えるけど、そこに過程がたくさんあるってことを知ったんでしょうね。

橋本 松尾東線と松尾19号線のアーケードが撤去されるときも、いろんな過程があって、夜通し作業が続いてましたもんね。

アーケードの撤去が始まった夜。(2020年1月6日撮影)

宇田 翌朝になったらもうがらんとしてて、「あっという間になくなっちゃったね」って話になるんですけど、実際にはアーケードの骨組を一本ずつ焼き切って外すという地道な作業があったんです。その「あっという間」のあいだのことを、自分で確かめたいのかもしれないです。この市場にしたって、一朝一夕にできたわけじゃなくて、長年の積み重ねがあってのものです。お店の人たちって、細かい工夫をたくさんしますよね。たとえば、ちょっと棚が斜めになっているところがあれば、段ボールを一枚噛ませて平らにしたり。そういう細かい工夫こそが、その人がそこで店をやっているあかしだな、と。ちょっと変な形の造りになっているところを、どうにか工夫をして店らしい構えにしたり。まちぐゎーって、パッと見だと「なんでこんなふうになってるんだろう?」と思うところが結構あるじゃないですか。それをパッと写真に撮って「変だね」って笑って終わらせることもできるかもしれないけど、そこにはストーリーがあると思うんです。「レトロで変な商店街だ」って終わらせるんじゃなくて、なんでこうなったのかが知りたい。「戦後の闇市が」という大きなストーリーとは別の話として、ひとりひとりが店を作ってきた歴史があるから、そういう手作業みたいなことまで知れたらもっと面白いと思うし、アーケードをどうやって撤去するのかってことも自分で確かめたいんだと思います。

 

古い街並みに対する“まなざし”

 
橋本 『そして市場は続く』のあとがきを読んでもらったとき、ちょっと正確ないいまわしは忘れてしまいましたけど、宇田さんに「ちょっと奥歯にものが挟まっているような感じがする」と言われたんですよね。あとがきを書くにあたって、この4年間に感じたことや、これからまちぐゎーに巻き起こるかも知れない変化について書いておきたいなと思いつつも、僕のエッセイ本ではないので、あとがきとして書けることには限界があるなと思っていたんですよね。ひとつには、第一牧志公設市場が建て替え工事をおこなったことで、周囲にある古い建物をどうしていくのかが問われていくことになるだろうなと思ったんですよね。古い建物は、いつかはきっと建て替えられることになるだろうから、「この古い建物が魅力なんだ」とは書かないようにして、「市場の魅力は人に尽きる」と書いたんです。そうして抑制的に書いたから、奥歯にものが挟まったように感じたんだと思うんですけど、やっぱりあの街並みに魅力を感じているところもあるんですよね。それは別に、レトロな建物が好きとかってことではないなと、今の宇田さんの話を聞いていて気づきました。もしもレトロっぽく復刻した建物ができたとしても、それを面白いとは思わないんですよ。それは、宇田さんが言ったように、そこで暮らしてきた人の創意工夫が詰まっている場所ではないからなんでしょうね。そう考えると、この街並みを面白いと感じているのも、人が理由ではあるんですけどね。

アーケードの下に、現在は小さな酒場が軒を連ねる。
よく見ると、提灯の向こうに「松尾二丁目中央市場」の看板がある。(2020年1月6日撮影) 

宇田 戦後、ここで商売しようという人が大勢集まって場所を分けあったから、一軒の間口が狭い。間口が狭いからこそ、外にはみ出さないと商売ができなくて、アーケードが必要になる。そういうことを理解せずに「はみだしがよくない」とか、「アーケードはなくてもいいんじゃないか」とか、簡単に言ってほしくないと思うんです。別に奇を衒ってこうなったわけではなくて、皆が必死にやってきたのが今のこの形なんです。そういう経緯を皆に知ってもらいたいというのは望みすぎかもしれないですけど、「なんか変だね」と笑って済まされたくない。

 

まちを記録に残すこと


橋本 それで言うと、取材してみないとわからないことってあるなと、最近あらためて思ったんですよね。横手やきそばで「まちおこし」をしてきた横手市で取材してみて、「まちおこし」に対して誤解をしていたな、と。まちおこしというのは別に、横手やきそばを観光客相手に売り出そうというわけではなくて、これを通じて横手という町のことを知ってもらったり、地元の人たちが誇りを持ったりすることが大事なんだ、という話を聞かせてもらったんです。実際、横手やきそばでまちおこしが始まるまでは「横手って、なんにもない町だよね」って地元の人たちですら言っていたところから、「横手には独特のやきそばがあるんだ」と言えるようになった、と。その話を聞いたとき、僕も「うちの地元にはなんにもない」と言ってしまう側の人間だなと思ったんですよね。有名な地酒はありますけど、それ以外に何かとなると、家族でいつもお好み焼きをテイクアウトするお店ぐらいしか思い浮かばなくて。 

宇田 いや、良いんじゃないですか。それで十分、良いです。最近、友達と話していたときに、「沖縄なら固有の文化や歴史があるから、まちあるきのイベントに人が集まるだろうけど、田舎町だと誰もこない」と言われて、「いや、そんなはずはない、絶対に何かあるはずだ」って、その町のことを何一つ知らないのに力説したんです。たとえ新しい住宅地だったとしても、住宅地になるまでの遍歴があるはずだから、「何かあるよ」って。

橋本 小学生の頃に、「地元の歴史を調べてみましょう」みたいな授業があったんですけど、わかりやすく歴史的な何かを探そうとすると、ほんとに何もなかったんですよね。「山の上にあるお寺には、昔、平家の残党が身を潜めていたという伝説があるらしい」とか、それぐらいのもので。ただ、そこで「うちの地元には何もない」と思ってしまったのは、歴史っていうものを大げさに捉え過ぎていたんだろうなと思ったんです。もっとこう、そこには昔どんな風景があったかとか、どうしてうちの地域の瓦はこの色なんだろうとか、身近にある物事を歴史として捉える感覚が身につくといいんでしょうね。

ウララのすぐ近く、かりゆし通りには、少し前まで惣菜屋が軒を連ねていた。
界隈にはひとりで店を切り盛りする店主が多く、
ゆっくり外食する時間もないから、惣菜屋が求められていたのだろう。
(2016年3月中旬頃撮影)

宇田 私はここにきて店をやるまで、この場所には昔スクガラス屋さんがあったっていうことを知らなかったんです。店を始めてすぐのころ、入荷した古い雑誌を見ていたら、同じ間口にスクガラス屋さんがあった頃の写真が載っていて。それは垂見さんが撮った写真だったんです。それまでは別に、「自分の家がある場所はもともと何だったのか」とか、そういうことにまったく興味がなかったし、知りたいとも思わなかったのに、ここには前にどんな人がいたか知れただけで、なんだか嬉しくて。市場はそういうことに関心を持つ人も多いですし、写真もたくさん残っているからそれができたんですけど、普通の場所だとなかなかないですよね。 

橋本 そう考えると、とにかく記録しておくってことが大事なのかもしれないですね。今ここで商売している人たちからすると、「歴史を紹介したり、今を記録したりすることは、商売とは別の話」と思われるかもしれないけど、とにかくやたらと記録しておけば、40年、50年経ったときに、「ああ、こんな景色だったんだ」って思う人が出てくるかもしれない。そこが山を切り拓いて造成された新興住宅地だったとしても、現在の姿をやたらに記録しておけば、数十年後にはそれをきっかけに歴史を感じる人が出てくるかもしれないですね。


(2023年4月26日 市場の古本屋ウララにて)


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