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【#スポーツがくれたもの】家族を創ったのはサッカーだった
コンテスト開催中の #スポーツがくれたもの について考えてみます。
いつも堅めな内容なので、少し違ったテイストもいいかなと思ったので。
僕の家族(父・母・弟二人)は、弟と母が同居しているのを除けば、全員バラバラの場所に住んでいる。(広島・兵庫・栃木・東京)
にも関わらず、たぶんだいぶ仲が良い家族だなぁと思っている。
父は仕事の関係で、2〜3年に1度転勤することが当たり前で、小さい頃の僕ら兄弟や母、もちろん父自身もそうだと思うが、いつも新しい場所に身を置くことが負担になっていた。
詳しくはわからないが、当時は3人の育ち盛りの男兄弟を抱え、持ち家のローンを負いながら転勤先の家賃も支払っていたため、家計としても難しい状況だったんじゃないかと思う。
そんな一見ズタボロの家族が今でも良い関係で、仲良くいられるのは親の努力のお陰だ。(正論)
でも、その次ぐらいに「サッカーが家族を創ってくれた」といっても過言ではないと思っている。
家族への感謝と尊敬
僕ら家族が仲良く、良い関係でいられいてるのは「感謝」を忘れていないからだろう。
家族とは言えど、互いにリスペクトしあい、常に感謝の気持ちを持ち続けることは難しいことだと思う。
では、何に感謝し、何を尊敬しているのだろうか。考えれば、ほとんどがサッカーに関わる内容だったことに驚いた。
僕の父は戦略家だ。
父によって刷り込まれた考え方や、分析・観察力なんかは仕事をする上でも活きているし、感謝も尊敬もしている。
ただそれらは、父の仕事ぶりを見て学んだわけでもなく、勉強会を開かれていたわけでもない。
まぎれもなく、サッカーというスポーツを通した議論の中で思考力を養っていくことができた。
例をあげると、
1対1でいつも縦にばかり仕掛けていると単純に思えるかもしれないが、相手の心理としては「いつ中に切り込んでくるのだろうか」「いつも縦ばかりで読みやすいが、いつか突破されてしまうんではないか」とネガティブに考えるDFもいるよ
など、プレーがどうこうというより考えを極めることを教えられた。
母には、感謝の気持ちが大きすぎる。
高校時代は特に、部活のために朝6時家を出ていた僕より先に起きて毎日弁当を作ってくれた。
高校3年の時に、主将をやりながら孤独と重圧に追われていたときも、なんとなく支えがあるような感覚があった。
一緒にプレーしているわけではないけど、3年間の高校サッカーを共に闘ってくれた戦友ぐらいの感謝をしている。
きっと、普通に公立校で受験勉強していても母は僕を支えてくれただろうし、感謝できる存在だったと思う。
でも、今になってもお互いに「あの時は本当に辛かったよねー」って少しシリアスになるぐらい認識が一致するぐらいだったとは思わない。
次男は、人に媚びることなく正しいことは誰にでもストレートに指摘できる。
これは僕にはない力で、素直に凄いなと思う。
次男も同様に高校サッカーをしていたのだが、そんな性格故に、チームメイトや指導者から煙たがられる経験もしていたし、そのせいで試合への出場機会を失っていたこともあった。
一時的な自分の評価を気にせずに、真にチームにとって良いと思える行動をとれる勇敢さをいつも感じていた。
僕が主将をしながら、臆病な選択をしそうになったときに、次男の部活での「お前良くそんなストレートに言えたなエピソード」を聞くとなんだか勇気が湧いたこともあった。
仕事をしてからなおさら思うようになったが、組織で何か目標達成したいときに、次男のような人は必要で重宝されるべき存在だ。
三男は自己理解度が高く、意志を貫き通せる強さがある。
前述の通り、兄二人は高校までサッカーを続けている中で、三男も高校入学と同時に色んな人から「当然、サッカーを続けるんだろう?」という暗黙のプレッシャーを浴びていた。
当時僕は県内の強豪で主将⇨推薦で大学入学、次男は三男と同高校でレギュラーとして活躍したため、相当プレッシャーがあったと思う。
そんな中で、三男は中学でサッカーを辞める決断をした。
タイプ的には遅咲きで、身長も伸びてきていたためポテンシャルはあったと思うが、中学生で周りの期待をいい意味で裏切って、自分なりの高校生活を作っていくと決めたのは容易ではなかったと思う。この決断を踏まえ僕なりの推測をすると、彼は自己理解度が高いと思う。
彼はプレッシャーに弱いが、勤勉な性格なので緊張感にさらされていなくても努力できるタイプだったと、高校3年間を見ていて思った。
だから、部活もそこまで厳しくない環境だったが、真面目に向き合っていたし、1年生から勉強も手を抜かずに結果的には志望していた国立大に合格した。
何より、僕にとってはこの一連の経験で、僕という存在が知らずとも誰かにプレッシャーを与えているということを意識させてくれたし、互いへの配慮と他人の選択への尊重を家族一同で認識できた機会だったと思う。
僕のサッカーを通じて、または弟がサッカーと向き合っているのを間近に見て、感じて、様々な気付きがあり、思いやりを知った。
自分が与えてこれたもの
エンターテインメントと話題性ではないかと思う。
主観でしかないかもしれないが、僕はエンターテインメントを提供するサッカーこそが最も価値があると思っている。(勝ち負けよりも大事だと思う)
大衆に対してそれを提供できるのがプロであり、アマチュアであっても限定的にその価値を発揮することはできると考えている。
冬の高校サッカー選手権は日本のアマチュアサッカーの中で、その価値が最も発揮されていると言えると思っていて、技術や戦術ももちろんだが、高校生の様々な感情・心情・躍動感を描写し、観ている人に勇気・希望・感動・楽しさ・懐かしさを与え、魅了している。
簡単に言えば、チームが負けても「応援したい・観に行きたい」と思わせることができれば、それが収入(価値)となるし、勝ったとしても「退屈だ」と思われれば、価値があるとは言えないではないか。
僕は、家族に対して彼らの予想を超えるようなエンターテインメントを提供することができたと思っている。
母は「ハラハラ・ドキドキする」と言いながら、観に来てくれたし、Twitterに僕のことが書かれていたら、いつもいいねしていた。
父は僕にアドバイスするために、サッカー自体を下手したら僕よりも研究してのめり込んでいった。(見ている限り)
家族だけでなく、親族と会ったときもいつも話題になっていた。
そして、「観る」という行為を通じて、家族・親族が集まった。
高校から父は単身赴任だったし、祖父母も従兄弟も叔父も叔母も全国バラバラだった家族を、サッカーという競技を通じて繫げることができたのではないかと思っている。
中学生の時ぐらいから、僕の遠征=他の家族4人の旅行先になっていた。
その頃から、僕はちょっと浮いた存在になっていたけど、それでも僕にとっては恩返し(できてるかどうかわからないが)と思い込んで、少し自分の役割が嬉しくもあった。
大学までサッカーをさせてくれた父母、僕という存在によってプレッシャーを背負わせてしまった弟たち。
僕が家族に「感謝」しながら、日々を生きていられるのはサッカーのおかげだ。
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