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命長ければ辱多し〜吉田兼好の言葉から考える、理想的な人生と死〜

「命長ければ辱多し 長くとも四十に足らぬほどにて死なぬこそめやすかるべけれ」

吉田兼好の言葉が身に染みる。40歳そこそこで死ぬのが理想的というが、わたしはすでにその倍とは言わぬが、30年近くも超えてしまっている。もっとも、兼好の時代は、平均寿命が30歳程度。現在、男性の平均寿命は80歳を超える。そこから見ると、まだまだと言えるのかもしれない。

とはいえ、「形を恥づる心もなく」「命をあるまし」「もののあはれも知らずなりけれ」と、なんとも救いがたい姿になってゆくのは避けたいものである。


最近、人生の終わりについて書かれた一冊の本に出会った。「人はどう死ぬのか」と題された本で、著者は医師でありながら小説家でもある久坂部羊氏。彼の筆によって人が死に至る過程や、安らかな最期を迎えるための知識が綴られている。講談社のWEBページに紹介があったのでご存じの方もいるかと思う。

興味深いのは、著者が望ましい死に方についてのアンケート結果を引用している部分にある。そこには、多くの医師が「ガン」を最も望ましい死に方として選んだという事実に触れている。さまざまな死と向き合ってきた医師が、最も望ましい死に方として選んだのが「ガン」だったことに、深く考えさせられる。

「ガン」の終末期は苦しむものだという認識が一般的かと思う。たしかに、「ガン」を根絶しようとして過度な治療を受けると、強い副作用で苦しんだり、思いとは逆に命を縮めたりすることもあるという。しかし、過度の長生きを望まずに「ガン」とうまく共存することで、場合によっては苦しみに満ちた闘病生活を避けることができる。

何よりも、「ガン」は一定の死期が予測できることが大きい。医師や患者は、その時間を有効に活用し、心の準備をすることができる。ポックリと逝くような急死や事故死と比べれば、遺された家族や友人たちにとっても、その死を受け止める時間が与えられる。一方、老衰による死は、準備期間こそあれ、長い間家族に面倒を見てもらうことになる。「ガン」であれば、適度な準備期間を設けることができるというわけだ。

最近ではSNSの記録やサブスクリプションなど、死後に残したくない物事が増えている。さらに、遺産整理や手続きは容易ではない。こうした事柄を残さずに済ませるためにも、私にとっては、死に至るプロセスを知り、準備することの重要性が浮き彫りになった。


人はこの世に生まれてくることも自分の意思では決めることができないが、どのように死にたいのかも、自殺以外、自分で決めることは難しい。ならば、私にできることは、生きている間に、どのように生きるかを選択することだ。

偉大な思想家たちは、死を受け入れることの大切さを説いてきた。モンテーニュは「哲学とは、つまるところ死を学ぶことである」と述べ、キケロは「哲学者たちの全生涯は、死に対する準備なり」と教えた。死は避けられない運命なのだから、恐れるよりも受け入れる心構えが大切なのだ。

生と死は表裏一体の関係にある。生きるということは、日々死に向かっていること。だからこそ、命の有限性を自覚し、この世で精一杯生きることにしたい。


時代とともに平均寿命は延びている。健康的な生活を心がけることで、活力を維持し続けることも可能だ。精神的な充足感を得ながら、心身ともに健やかに年を重ねていけたならば、それも素晴らしい人生と言えるだろう。

年月を経て、すべてを手にしたと満足するか、あるいはまだ足りないと感じ続けるか。人生の醍醐味はそこにあるのかもしれない。今を大切にしながら、残りの人生をどう生きるべきかを、私なりに模索していきたいと思う。

死に方を完全にコントロールすることはできないかもしれない。しかし、生き方次第で、望ましい最期を手に入れることはできるのではないか。

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