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自己愛から対象愛が生まれるのではないよねという話

自己愛の人は他者を自分の延長の存在のように愛すると言います。自己心理学を提唱したコフートは、他者そのものと関係する対象関係、対象愛と対置して、自分の延長のような存在の他者、つまり自己の一部の存在と関係する対象との関係を「自己対象関係」と記述しました。

よく、子どもは自己愛が満たされることで、自己愛的な世界から抜け出し、大人の対象愛を獲得し、他者と交流できるようになり、自己愛が消えていくようなことが言われることがありますが、これは自己愛−対象愛はひとつのライン上にあり、大人が自己愛的になることは未熟だという誤解を生みます。

コフートはこの対象愛というものは、一つのラインではなく、自己愛というラインと対象愛というラインが並列していて、対象関係において、どちらが賦活されるかに過ぎないと考えました。自己愛のラインに心的エネルギーが注がれれば、自己愛的になるし、対処愛に注がれるようになると、自分と異なる感情思考を持った有機体としての他者と交流ができるというわけです。

コフートは、自己愛的関係を主にする子供の世界において、自己愛的に満たされることで、自己愛への心的エネルギーの備給が減少し、浮いたぶんの心的エネルギーが対象愛に備給されることで、対象愛へと発達する(そういう側面が強くなる)と考えました。この自己愛と対象愛の並列回路を持つという考えは、自己愛―対象愛の1回路を仮定するフロイトの自我心理学と大きく違うところと言えるでしょう。

また、彼は自己愛リビドーを自己愛「ニード」を満たすものと述べたところに、フロイトの欲動論との大きな違いがあります。願望desireではなく欲求needと言いかえることで、フロイトの性的欲動論の仮定する叶うことのない、願望充足の失敗に対する防衛の除去というモデルから、自己愛者が得られなかった満足を望むのは当然のことであり、その手当がなされることで、対象関係機能を賦活させようとする理解が生まれます。

この用語の転換は非常にエポックメイキングなもので、欲求として理解することによって、自己愛者の持つ特有の対象関係が理解できるようになるし、彼らが、得られなかった共感と、共感不全のケアを求めているのだということがわかる。それは防衛でもなくて当たり前のことであって、それを解釈して取り除くという態度を取れば、彼らが激烈な怒りを示すのは当然だと考える、臨床のスタイルが生まれてくるわけです。

これだけ大きなパラダイムチェンジをぶち上げたものですから、ミスター精神分析とまで言われたコフートが、異端視され分析協会を追われるのもよく分かる話です。

この話をするとき、いつもどうにも伝わっていないなと感じることが多いのですが、それは「対象」の捉え方が大きく違うところが噛み合わなくさせるのかなと感じることが多い印象です。自我心理学の転移の対象はあくまでも他者性を有した対象と捉えるのに対して、自己心理学では転移は自己対象との間で起こると考えるところで、大きな混乱が起こりがちのように感じます。臨床上、あるいは夫婦関係で自己愛の問題が生じるとき、周囲の人間はこの、自己愛者にとって他者が他者性を有しているように経験されていないということが問題になっているということが、致命的に理解されない。

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