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自分だけの苦しみではない

生きる理由とは、なぜ死なずに生きていけるのかという問いかもしれません。

人生には辛いことが数多くあり、時には生きることに疲れ果て、死ぬことを考えることもあります。しかも、いずれは死ぬ運命なのですから。それが少し早まるだけのことではないかと思うこともあります。このような考えが浮かぶこと、その気持ちを理解できます。しかし、それを実行に移さないのは、何かこの世界に私たちを留めておく何かがあるからかもしれません。または、単に苦痛を恐れるからか、宗教的あるいは道徳的な理由からかもしれません。このような考え方はどこか消極的ですが、現実を強く結びつけるものがなければ、うっかり死へ向かってしまうこともあるでしょう。

うつ病を含む精神的な症状では、しばしば「焦燥感」と呼ばれる感覚が現れます。この感覚は、切迫感と不安感、耐え難い焦りが同居し、この苦しみが枠になるなら、死んだほうがマシだと思ってしまうほど強烈に襲ってくる場合もあるほどです。これは論理的な理由で克服できるものではなく、単にその感覚を乗り越えるしか方法がありません。こうした状況では、これまでの経験やスキルが無力となります。精神科医のサリヴァンはこれを「恐慌」と呼び、大切なものが崩れる瞬間だと表現しました。これまで成功してきたことでさえ、時折恐慌に襲われ、自己を守ることができないほどの屈辱を感じることもあるのです。

しかし、症状や生きる意義に関する問いは、単に何もないところから生じるものではなく、その人の発達や人格を形成する過程に影響を与えています。もちろん、そのバランスが取れているならば、そのバランスを乱すよりも、「この人にとってどのような行動や方向が望ましいか」と問いただすほかありません。この考え方は本当に的を射ていると思います。こうした適応の欠如は、自己の欠如感に由来するとサリヴァンは述べています。この自己の欠如感は、経験を個人の殻に閉じ込め、他者だけでなく自己との対話をも遮断してしまうのです。

病気というものは、一般的なパターンがあるため治療が可能であり、見通しを持つことができる部分もあります。病気や悩みを過度に個別化しすぎることは、問題を共有的に扱うことを難しくします。そのため、この作業は非常に難しく、内面が現実とのつながりを失うと、新たなアイディアを生むことや別の可能性を探ることができなくなってしまいます。個人の心の病に陥ると、問題に対処することが難しくなります。

この自分の苦しみが、自分だけの問題でないことを知るだけでも、人々は非常に救われるでしょう。自分だけが特別な問題を抱えているわけではないのですから。


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